千里中央再開発

昭和37年の千里ニュータウン

「千里中央再開発日記」というYouTubeチャンネルで、千里ニュータウンの歴史を振り返る動画を配信しています。

これまで、千里中央の現状や新しいお店の開店・閉店情報を中心に発信していましたが、過去の歴史も振り返ってみようと思い立ちました。

そこで、昭和37年から長きにわたり千里ニュータウンの出来事を記録した**「千里タイムス」**や「ニュータウン」の記事を読み解き、その時代の空気を感じながら動画やブログで紹介していくことにしました。

昭和37年6月20日「千里タイムス創刊」

昭和37年、日本初のニュータウンが千里の丘陵地に誕生しました。
この年、「千里タイムス」 も創刊されました。

この新聞は、まさに千里ニュータウンの成長を記録した貴重な資料です。

斜め読みするだけでも、
区画整理の問題
学校設立の遅れ
大阪万博での出来事
など、さまざまな話題が詳細に書かれていて、とても興味深い内容が詰まっています。

今回は、その中でも特に気になった昭和37年の記事をピックアップします。

「新都市誕生の建設譜」— 夢のニュータウン計画がスタート

創刊号のトップ見出しは、「新都市誕生の建設譜」
千里ニュータウンがどのように作られていくのかを伝えるものでした。

記事によると、すでに数戸の公団住宅への入居が始まっていましたが、最終的には3万戸、15万人の人口を目標にしていたそうです。

しかし、日本初のニュータウン計画には、「ニュータウンの陣痛」という事で、
さまざまな問題も予想されていました。

住民を悩ませた「高騰する水道代」

「千里眼」というコーナーでは、今後起こりうる問題を鋭く指摘。
その中でも**最も大きな話題は「水道代の高騰」**でした。

これまで水道整備がされていなかった地域だったため、新設された上下水道の工事費が加算され、現在の価値に換算すると月額1万円以上の水道代がかかっていたのです。

また、住民の不満をさらに煽るように、市長・市議・役人の給与は右肩上がり。
しかも、年度の途中で昇給が決定し、遡って4月分から追加支払いされるという理不尽な状況でした。

吹田市役所の利権争い— 行政の闇

昭和37年、吹田市では市長と市議会の間で激しい利権争いが起こっていました。

争点となったのは、
水道局
建設部長
市民病院事務長
民生保険部長

これらのポジションをどちらの勢力が握るかで、権力のバランスが変わるため、市議会と市長が互いに相手の不正を暴き合う泥仕合となっていたのです。

この構図、令和の現代でもどこかで見たことがあるような…?

教科書無償化で大揉め!市民 VS 役人の攻防

昭和37年10月、教科書の無償化が決定し、翌年(昭和38年)から無料で配布されることになりました。

すると、すでに昭和37年に教科書を購入した保護者たちから「今年分も返金しろ!」という声が上がり、大論争に発展しました。

この話だけ聞くと「ちょっとセコいのでは?」と思ってしまうかもしれませんが、
問題は、役人の給与昇給が遡及適用されたことにありました。

役人の給与は過去に遡ってアップ!
でも、市民の権利(教科書無償化)は翌年から!

このダブルスタンダードに、住民の怒りは爆発しました。

豊津池の埋め立て問題— 町の未来を巡る争い

千里ニュータウン周辺には、かつて多くの溜池がありました。
その中でも特に大きかったのが**「豊津池」**。

当時、この池を埋め立てて住宅地にする計画が進められていましたが、
実はこの池、垂水町・榎坂町(現・江坂)・豊津町の共同水源だったのです。

ところが、豊津町の独断で埋め立て計画が進み、他の町が猛反発!

この問題、今でいう「公共の資源を一部の自治体が勝手に使う」ような話ですね。

近隣センターの商業エリアが決まる!

佐竹台の近隣センターには、当時約5,000人の住民が暮らしており、将来的には1万人規模に拡大すると予想されていました。

そのため、吹田市と大阪府企業局が協議し、地元の個人商店を優先して入店を決定

発表された入店業種は以下の通り:
✔ 果物屋
✔ 洋品店
✔ 履物店
✔ 鮮魚店
✔ 理髪店
✔ 喫茶軽食店 など

ただし、ここで面白いのは酒屋や電気店が全くなかったこと
当時の商業の考え方が今とは違うことがよく分かります。

阪急百貨店の進出計画(昭和37年12月)

近隣センターの商業エリアが決まると、それに続くように阪急が「千里中央」へ百貨店進出を発表!

計画では、8年後のオープンを目指していたとのこと。
これは、昭和45年の大阪万博に合わせて千里中央を発展させる狙いがあったのかもしれませんね。

府営住宅の追加入居者発表

2024年の現在では考えられないかも知れないが、
府営住居に入居する人の世帯主、住所が新聞で発表されている。
佐竹台の府営住居B棟で、当選していたにも関わらず直前に入居資格を取り消された者、
自主棄権者が22世帯。
その空いた住居を再選出し、結果を住所と共に世帯主の名前を発表しているのである。
入れなかった(入居資格を取り消された)人が自分の代わりに入った人物を特定できるというのは少し怖い気もする。

最後に切ないノンフィクションが書かれていたのでこれを昭和37年の最後の記事として紹介する。

「千里丘陵開発で起きた女の悲劇第一号」

“女の恋は貧乏で若い時にすることだ”

佐井寺の和田操さんは大東亜戦争で夫を失なった。
辛い、終職後、吹田市役所に職を見つけて
亡き夫との間に出来た男の子の成長をたのしみに暮らしていた。
役所での勤務振りも真面目で、戦争未亡人という立場に対しての世間の同情もあって彼女の一日一日は苦しい終戦後の生活の中にあっても世間一般のそれよりも恵まれていた。
このまま、無事平穏にすぎてゆけば彼女も子どもの成長とともに立派な戦争未亡人として恐らく、良妻賢母の表彰の対象ともなったことであろう。

好年魔多しのたとえは和田さんの上におそいかかって来た。
昭和二十四、五年頃、吹田市役所に若い職員が急に殖えた、その中でも特に山川弘は二十一才の若さでその容姿が若い女子職の注目をあびて噂のまとになっていた。

操は大正五年生れですでに三十四、五歳という女盛り。
然も夫を戦争で奪われて以来の長い空閑の淋しさに人知れず熱い血を沸かせてい
た時で年甲斐もないと自分で自分を叱りながらもそんな若い娘たちの噂を聞くたびに一人寝の床で山川の夢を見たこともあった。

昭和三十二年 大阪府が千里丘陵を開発して日本一のモデルベットタウンを造成する企画を発表、千里丘陵の買収にかかった。
佐井寺、春日町の農家はそれまで坪二、三百円でも買手のなかった山や畑がにわかに脚光をあびて大阪府に買上げられ、にわかに丘陵成金が村に出来た。
和田さんの婚家先の土地も売れてその仲間に加わった。
今まで役所の廊下ですれ違って熱い瞳を向けても見向きもしなかった山川が急に操に接近してきた。甘い恋の言葉さえささやいた。

子供のあることも、年の相違も問題ないと求愛して二人は結婚した。
「十も十五も年の若い男と…・・・」という声も幸運をにがした女のシットのように思って操はひたすら弘に寄りかかっていた。
マツダクーペを買って二人は役所に通った。

結婚して間もなく弘は操から土地の売却金を引出して佐井寺に七百万円程の家を建てた。
山川は役所をやめると大阪に料理屋を開いた。勿論、資本は全部、操から出ていたが商売は見事失敗したというよりも女に失敗したのかも知れなかった。


赤いネッカチーフを被り、首に流行のネックレスをまいても寄る年波は操の年はだませなかった。まして、料理屋に勤める女には若くて美しくて打算的なのが多い。
弘が操の所に帰って来る日が少なくなるたびに店はすこしつつ食いつぶされてとうとう借金を作ってつぶしてしまった。

七百万円で建てた家まで売ってしまったがまだ後に義理の悪い借金が百万程残った。
今年、五月それまで十五年程も勤めた市役所をやめてその退職金五十万円で借金の一部の返済を余儀なくされた操だった。
操さんが山川と結ばれさえせねば今も元気で市役所で税金台帳をめくって働いていることだろう。たとえ、退職したとしてもその五十万円の退職と亡夫の残してくれた土地の金で親子二人は一生涯、たのしく、平和に暮らせたことだと思うと、女は若い時貧乏な時に恋をすることだ。

その後、山川弘の居所は同僚の誰も知らないが操さんは相変らず山川の後を追って燃え残る女の欲望に取りつかれているとか。

終わりに

昭和37年、千里ニュータウンは夢のニュータウンとして動き出しました。
しかし、その裏では、行政の問題や住民の不満、さまざまなドラマが繰り広げられていたのです。

千里ニュータウンの歴史を振り返るこれまで千里中央の現状や新しいお店の開店、閉店情報を配信しておりましたが、今回過去も振り返ってみようと、昭和37年から千里ニュータウンの歴史を発信してきた「千里タイムス」から記事を抜粋して、その時の状況に想いを馳せたいと思います。...

次回は、昭和38年の千里ニュータウンを振り返ります!