千里中央再開発

昭和38年の千里ニュータウン

— 当時の新聞から読み解く、日本と世界の激動の一年 —

昭和38年(1963年)は、千里ニュータウンにとっても、
日本にとっても、まさに激動の一年でした。

戦後の日本は、ようやく経済復興の道を歩み始めたばかり。
昭和20年8月の終戦から17年——長く続いた貿易赤字を経て、
昭和37年にはついに黒字転換。

「戦争には負けたけど、ここから世界に日本の発展を見せつけてやる!」

そんな熱気と希望に満ちた時代でした。
しかし、そんな日本とは裏腹に、世界情勢は混沌としていました。

1月1日 新年の挨拶と「キューバ危機」の余波

大阪府知事・左藤義詮(さとう よしあき)の新年の挨拶では、**最初に取り上げられたのが「キューバ問題」**でした。

「え? なぜ大阪府知事がキューバの話を?」

と思うかもしれませんが、それだけ世界が核戦争の恐怖に包まれていたのです。

🔸 キューバ危機とは?

アメリカと貿易をしていたキューバは、不利な条件を押し付けられ、政権を握るバティスタ大統領はアメリカの支援を受けて私腹を肥やしていました。

それに反発した革命指導者・フィデル・カストロが1959年にバティスタを追放。

新政権となったキューバはアメリカとの関係を修復しようとしましたが、米国は「革命政権とは取引しない」と拒否。

結果、キューバはソ連を頼り、ソ連はキューバに核ミサイルを配備

これにアメリカが猛反発し、ついに世界は核戦争寸前の緊張状態に陥りました。

最終的に、
アメリカがトルコの核ミサイルを撤去する代わりに
ソ連もキューバの核配備を撤回

こうして、かろうじて戦争は回避されました。

「世界で唯一の被爆国・日本」にとって、これは他人事ではありません。
前年10月から続いた**「核戦争の恐怖」**が、日本中を揺るがしていました。

そのため、昭和38年の新年の挨拶は「キューバ問題」の懸念から始まったのです。

1月1日「鉄腕アトム」放映開始

奇しくも、同じ1月1日。

日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始。

鉄腕アトムは原子力エネルギーを持ち、悪を倒すスーパーヒーロー。

しかし、この時代背景を考えると、少し皮肉なことに思えます。

「現実では、核は世界を滅ぼしかねない恐怖の象徴」
「でも、アニメの中では、原子力は正義の力」

このギャップに、原作の手塚治虫も不満を漏らしていたと言います。

2月「三八豪雪」— 日本を襲った記録的な大雪

昭和38年、日本は記録的な大雪に見舞われました。
その中でも特に悲劇的だったのが、「愛知大学山岳部薬師岳遭難事故」

全国的に雪が降り積もり、
日本海沿岸で3メートルを超える積雪
阿蘇山で123センチ、鹿児島・枕崎市でも26センチ

さらに、インドネシアで火山爆発が発生し、世界的な気温低下を招く事態に。

少年犯罪の増加が社会問題に

しかし、日本で一番身近な社会問題は「少年犯罪」でした。

この年、吹田警察署が発表した昭和37年の犯罪発生状況によると、

検挙者数:495人
うち、19歳以下が240人(全体の約半数)
さらに、14歳以下が84人も含まれていた

これらの数字を見て、当時の新聞も「深刻な状況」として警鐘を鳴らしています。


🛑 犯罪の内訳

窃盗:151人(うち91人が中学生)
暴力事件:40人(うち19人が中学生)
凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦など):1件(12歳の小学生による強姦事件)

このデータを見ても、少年犯罪が当時の社会問題として大きく取り上げられていたことがわかります。


🔹 「教育改革」と「厳罰化」の議論へ

この事態を受け、新聞では「少年犯罪を防ぐためにはどうすべきか?」という議論が活発に。

✔ 「学校教育の改革」
✔ 「親の責任を強く問うべき」
✔ 「少年法の見直し」

こうした意見が飛び交い、少年犯罪の厳罰化を求める声も次第に高まっていきました。


3人で96ドル!? 飛行機代の高さに驚く

当時の円の為替レートは 1ドル=360円

新聞記事には、沖縄への視察にかかった費用として、

飛行機代 3人で96ドル(約34,560円)
船で行くなら1人8ドル(約2,880円)

と記載されています。

「船なら安いが、視察でのんびり航海するわけにもいかない」との記述から、当時の交通事情や公務出張の様子が伺えます。

🔹 那覇の百貨店に驚く!”アメリカ” の香り漂う沖縄

視察団が訪れた那覇市の百貨店

そこには、
オメガの腕時計
ワニ革の財布
万年筆
ウイスキー

など、当時の日本本土ではなかなか手に入らない**”舶来品”**が並んでいました。

「聞いたことはあったが、実際に目にして驚いた」という記事の一文からも、当時の日本と沖縄の”物資の違い”が浮かび上がってきます。

さらに、店によって同じ商品でも値段がバラバラで、交渉すれば値引きしてくれることもあると記載されており、視察団のメンバーが「どの価格が正解かわからない」と戸惑う様子も描かれています。

3月— “寿屋” が “サントリー” に社名変更

現在ではおなじみの**「サントリー」**。

実は、昭和38年3月まで、会社名は**「寿屋(ことぶきや)」でした。
この年、正式に
「サントリー株式会社」に社名変更**し、新たなブランド戦略を展開していきます。

この変化が、後の**「サントリービール参入」や「ウイスキー文化の普及」**へとつながっていくのです。


🔹 ビートルズのデビューアルバム発表(3月23日)

この年、世界を変える音楽が誕生しました。

ビートルズのオリジナルアルバム「Please Please Me」が発表

後に世界的な音楽ムーブメントとなる彼らのデビューが、昭和38年だったのです。

日本におけるビートルズの人気爆発はもう少し先ですが、このアルバムの発表は、戦後の文化の変化や、新たな時代の訪れを象徴する出来事だったと言えるでしょう。


🔹 4月— 日本初の「横断歩道橋」が大阪駅前に登場

現在では当たり前の**「歩道橋」ですが、昭和38年に日本で初めて横断歩道橋が大阪駅前に設置されました。**(実は愛知だという説もあります。)

当時の新聞には、
「自動車の増加により交通事故が多発し、歩道橋設置の必要性が叫ばれていた」
と記載されています。

都市の発展とともに交通事情も大きく変化し、今の街の形が形成され始めた時代だったことが分かります。

NHK大河ドラマ第1作目「花の生涯」放送開始
女性週刊誌「女性セブン」創刊
サントリーがサントリービールを発売。ビール業界に参戦

5月24日 千里ニュータウンに銀行第1号オープン

佐竹台の住民が待ち望んでいた「銀行」がついに誕生!

大和銀行千里支店(現・りそな銀行)が営業開始
千里丘陵ニュータウン地区の銀行第一号として新聞にも掲載されました。

6月— 全国を震撼させた「狭山事件」発生

この年、日本全国を震撼させた**「狭山事件」**が発生しました。

女子高校生が誘拐・殺害されるという凶悪犯罪で、事件の詳細は全国の新聞で大きく取り上げられました。

この事件は、後に冤罪問題や警察の捜査手法に関する議論を呼び、裁判が長期化することになります。

6月 関西電力 黒部川第四発電所完成

山形県酒田市沖で無灯火の不審船発見
海上保安庁による初めて公表した不審船事案。

高野台地区 新市民8千人

下記の地図でCに当たる佐竹台が一番初めに千里ニュータウンとして入居が始まった。
次の入居がB地区の「高野台」
6月15日から村田静夫吹田市長の「お祝い申し上げます」との言葉が送られる。

これは大阪市により近い場所から住宅が建てられていった為だ。
とは言え、まだ南千里駅も山田駅も無いわけで、
主力交通機関はバスのみ。


🔹 7月— 名神高速道路の開通と千里ニュータウンのマイカー族

日本初の**「高速道路」**が、この年開通しました。

7月16日 名神高速道路(栗東〜尼崎間)開通!

これにより、千里ニュータウンでも**「マイカー族」が急増。**

しかし、同時に**「自動車の盗難事件が急増」**し、新聞には、

住民が「夜も眠れない」と不安を訴える声
警察が張り込み中に、目の前で車が盗まれるという失態

などが報じられており、**「新しい時代の問題」**が浮かび上がっていました。

公有地の処分— 利権争いと千里ニュータウンの違い

昭和37年から続く豊津・垂水・榎坂の溜池処分問題は、年を越しても解決せず、ついには傷害事件にまで発展。

農業用の溜池を埋め立て、住宅地として売却するか
釣り堀やレジャー施設として活用するか

意見が対立し、「土地の利益を誰が得るのか?」という争いに。

一方、千里ニュータウンでは、大阪府が池を買い取り、住民の憩いの場として公園化を決定。

結果として、
豊津エリアは利権争いに終始
千里ニュータウンは住民のための公園として整備

この対照的な展開が、新聞のコラムで「公有地の明暗」として語られている。

昭和38年 佐竹台「団地盆踊り大会」の熱狂

佐竹台では、8月3日から7日までの5日間にわたり「団地盆踊り大会」が開催
当時の盆踊りは一大イベントで、開催1ヶ月前から告知され、夏休みに入ると「踊り方の練習会」まで実施されていた。

最終日には**「盆踊りコンクール」が開かれ、さらに、事前には日本民踊同好会が来訪し、プロの踊りを指導**する徹底ぶり。

「今年は5日間踊りまくるぞ!」といった熱気が伝わり、まるでリオのカーニバル並みの盛り上がりだったことが新聞記事からも伺える。

「今年は5日間踊りまくるぞ!」といった熱気が伝わり、まるでリオのカーニバル並みの盛り上がりだったことが新聞記事からも伺える

「今年は5日間踊りまくるぞ!」といった熱気が伝わり、まるでリオのカーニバル並みの盛り上がりだったことが新聞記事からも伺えるこの頃の熱い盆踊りへの情熱を、当時の方達に聞いてみたい。

8月7日「愛と死を見つめて」の原作モデル大島みちこさん死去
難病で恋人と別れるテレビドラマ、映画、小説などの原点であり、
1970年公開の「ある愛の詩」よりも数年早い作品。
「世界の中心で、愛をさけぶ」や「いま、会いにゆきます」などの先駆け。

8月15日政府主催による全国戦没者追悼式が開かれる。
以降毎年8月15日に開催され終戦記念日として定着していく。

ニュータウン発の電車発進するか?

阪急千里山線 新千里山駅(現南千里駅)の営業開始が決定した。
8月29日午前4時57分が梅田行き始発。
天六行きは6時6分。

さぁ、いよいよ便利になるぞ!

といった感じではない。
現在の南千里駅の周囲を見てみよう。
実際、団地はもう少し離れているのだ。
で、駅に行くには阪急バスがあるが、バスの始発は佐竹台周りで始発が5時55分。
高野台周りで6時2分。
折角4時57分の阪急電車一番電車があっても誰も乗れないという状況なのだ。
(始発の阪急バスに乗っても、6時13分発の5番電車しか利用できない事が明記)

同じ阪急系列なのに、
阪急電車の運行に対して、阪急バスが全く協力せず、
「電車は開通したけれど、バスそっぽ」
こんな見出して記事が出ている。

因みに新千里山駅から梅田までの運賃は15円。1ヶ月定期が450円で、高すぎると佐竹台自治連合会が市会に懇願。
併せて陸運局と阪急にも抗議文を提出している。

10月 吹田ニュータウン「津雲台」の開発計画発表

佐竹台・高野台に続き、次の入居エリア「津雲台」の開発が発表されました。

しかし、津雲台は**「府営住宅」を作らず、高級住宅街へとシフト**。

これに対し、住民からは「結局、お金持ちの街になるのか?」と不満の声も。

千里ニュータウンの開発方針は、この頃から大きく変わりつつあったのです。

  • 住宅公団住宅810戸
  • 住宅協会住宅540戸
  • 不開発センター分譲住宅350戸
  • 企業局分譲住宅149戸
  • 厚生年金住宅100戸
  • 給与住宅(会社)40戸
  • 独身寮100人分

この年の10月1日から翌年3月31日までに建設する予定だった府営住宅150戸が
丸々今回の発表から消えていることが問題に!何故そのような事に急になったのかと見解されている記事が出ている。
理由はこうだ。
新千里山駅(現南千里駅)が出来た事で、建設中のセンタービル(駅ビル)に
大阪ガス、関西配電(現関西電力)、大和銀行、池田銀行が入る事が決定し、
それ以外にも大きな指定業者が選定されて大きな商店街が形成される運びとなった。

そうなると府営住宅の安い建物を建てるよりも、
単価の高い方法で住民の住宅への購買力を煽る方が得策だと考えたのではないか?
と言うのだ。
また、団地でなく高級マイホームへシフトチェンジすることで、
今後のニュータウン構想の開発を色々試せるという目論見があるのではと論じている。

高騰していく公団や土地に住民目線から見れば、悪と考えるだろうが、
運営する側から考えれば少しでも高く、そして高級感のある町にと言うのも当然だ。
これは非常に難しい見解。

政治家に対して厳しい見解

昭和38年秋、衆議院は解散総選挙。
これが日本全国選挙の話題で持ちきりというのだ。
そして、出てくる立候補者をみると、
元検察界の重鎮とか、学校職員とか、水道局長とか、
市議会や代議士とかが人気を得たので国政に乗り出すなど。
そして、全然ゆかりもないにも関わらず、
宣伝カーで「吹田の皆さん!」とがなりたてていると言う。

こんな奴らを前回の選挙で通したのも私たち市民の責任。
今回はこの3年間の惨めさを味わったのだから、
今度こそ候補者を見極めて投票しなければと呼びかけている。
「恥を知っている人を選ぶべきだ!」と結んでいる。
「恥を知っている?」
「恥を知れ?」どこかで聞いた言葉だ。

この時の吹田側のニュータウン有権者4200人のうち
約7割が投票したというから恐ろしい投票率だ。
これも恐ろしほどの水道代のせいと言うから、
住民の不満と投票率は因果関係にあると言うのも頷ける。

豪華思考の津雲台 ニュータウン初の宅地分譲

10月も後半に入り、津雲台の高級感が取り沙汰されている。
新千里山駅周辺はデラックス商店街と言われ、
先に開発された佐竹台、高野台からはは羨望の眼差し。

そして、ニュータウン発の宅地分譲が開始される。
申し込みは11月26日から30日までの5日間。

小学校の先生酒乱で大暴れ

昭和38年の吹田は、年明けから吹田警察発表で少年犯罪の多さに驚き、
村田吹田市町の「清潔な市政」の理念が掲げられた。
とにかく大人が子供たちの見本となるようにと。
また村田市長は教育畑出身だけに、特に学校関係者には口酸っぱく言ったという。
しかし、年末に市立小学校のある教師がやらかした。

そのある教師、元々酒乱の気がある方のようで、
酒を断ちますと挨拶、
そして、酒断ちの最後の忘年会とあいなった。
しかもそれは小学校の職員室。
昔は小学校の職員室で最後の忘年会をする程、危機意識が低かったんですね。笑

そこでこの先生、酒乱で大暴れし、
警察が呼ばれます。
その夜は警察署でお泊まりすることに、、、
これがバレて市長が年末に謝るという全くバカな話。
酒断ちの席で酒で暴れる。まるでコント。

千里生協 初詣にバスツアー

千里消費生活協同組合が昭和39年の初詣バスツアーの計画。
参加者募集を行なった。
日時:昭和39年1月7日
コース:多田神社、中山観音、宝塚ヘルスセンター
会費:大人200円 小人100円
弁当付き

いいなぁ、私の個人的な意見ですが、
今からでも行きたい!

11月22日、アメリカ大統領J・F・ケネディ暗殺

新年の挨拶で大阪府知事が前年10月のキユバー危機と併せて、
暗いニュースが続いたことを嘆いておられました。

なのに師走直前の11月下旬に大統領暗殺の大事件
翌11月23日に初の日米間の衛星中継放送実験が成功
その初めてのニュースがケネディ大統領暗殺事件になるとは

この昭和38年は記事を見て振り返っているだけで、
少し気持ちが沈みます。
ただ、一生懸命日々の生活をされている人々の姿がチラチラと脳裏をかすめます。
そして、何とも言えない気持ちになります。

先人のご苦労があって、
今の千里ニュータウンがあるのだな、、、そう考えずにはおられません。

最後にこの年の5月23日に発表されたボブ・ディランの作品
「Blowin’ in the Wind」邦題(かぜにふかれて)が
この1963年という激動の一年を表しているように思います

「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永遠に廃絶する気になるのか」
「為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか」
「人は何度顔を背け、見てないふりをできるのか」
「一人一人に幾つの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのか」
「人はどれだけの死体を見れば、人が死に過ぎだと気付くのか」
「人はどれだけ経験すれば、一人前と認めてもらえるのか」

ボブ・ディラン本人はこの詩に対して、このように述べられてます。

何かがあって、その答えをポンと出すやつは信用できない。
映画や本、テレビの討論会にも答えはない。
答えはフワフワと漂っていて、折角掴めるところまで来ても
誰も拾って読もうとしない。
そうして誰にも見られず理解されず、また飛んでいってしまう。

俺は今21歳だが、
間違っている事に気づいている大人はいるはずだ。
だけど、間違いから目を背ける大人が沢山いる事も分かっている。

俺より頭がいいはずなのに、、、

ボブ・ディランの魂の言葉

切ない

千里ニュータウンの歴史を振り返るこれまで千里中央の現状や新しいお店の開店、閉店情報を配信しておりましたが、今回過去も振り返ってみようと、昭和37年から千里ニュータウンの歴史を発信してきた「千里タイムス」から記事を抜粋して、その時の状況に想いを馳せたいと思います。...