千里中央再開発

昭和39年の千里ニュータウン

— 穏やかに見えた一年、その裏に潜む変化 —

前年の昭和38年は、世界的な激動の一年でした。
それに比べると、昭和39年は千里ニュータウンにとって穏やかな一年だったように感じられます。

しかし、そんな中でも、街の発展とともにさまざまな問題や出来事が起こっていました。
本記事では、東京オリンピックの話題を一旦置いて、昭和39年の千里ニュータウンの「小さなニュース」を振り返ります。

1月1日— 吹田新庁舎完成と”浮かれムード”

昭和39年の新年の挨拶は、「吹田新庁舎の完成」を祝う内容で始まりました。
新聞には**「悲願!」と大きく書かれていましたが、これは市長や役人目線の話**であって、市民が本当にそう思っていたかは疑問です。

とはいえ、この頃の吹田市は、千里ニュータウンの発展により毎年人口が右肩上がりに増加
それに伴い、税収も増え続けていたため、「街づくり」から「文化施設建設」へと、行政の関心が変わり始めている様子が伺えます。

村田静夫吹田市長は、新庁舎完成の喜びを語るとともに、先日行ったアメリカ視察の話を持ち出し、
「今後は美術館や博物館を作るべきだ」と発言。

前年までの「経済成長」「街の安全」の話題が消え、少し浮かれた雰囲気が感じられるようになっていました。

しかし、この年、すでに利権をめぐる争いが表面化していきます。

受付嬢から守衛まで? 役所と業者の癒着に疑問の声

新聞には、新庁舎に関するある疑惑が報じられています。

吹田市の印刷物の50%が、特定の業者に発注されている
新庁舎で働く受付嬢や守衛も、同じ業者ばかりが採用されている

現在のようにオンブズマン(市政監視機関)がない時代、
こうした行政と業者の癒着は見逃されがちでしたが、この頃から疑問を持つ市民の声が少しずつ出始めていたようです。

1964年の千里ニュータウン— 人口急増と教室不足

昭和39年、千里ニュータウンには新たに4000戸の住宅が完成し、
1年間で約15,000人の人口増加が見込まれていました。

1962年 佐竹台 入居開始
1963年 高野台・津雲台 入居開始
1964年 藤白台・古江台 入居開始

特に、出生率が全国平均の2倍という驚異的な数字を記録し、
子どもが増えるスピードに学校の整備が全く追いつかない状況になっていました。

教室満杯! 1クラス50人超えの過密状態

千里ニュータウンの人口増加に伴い、小学校の受け入れが完全にパンク状態。

新庁舎を作る余裕はあったのに、小学校の整備は遅れた
その結果、1クラス50人を超える教室が続出

教育の現場は混乱し、父兄やPTAからの不満が爆発していました。

さらに、千里ニュータウンだけでなく、古くからある豊津地区の中学校でも1クラス50人超えが発生。
しかし、府の教育委員会は**「いずれ減るから」と見て見ぬふり**。

これに怒った住民たちは、行政に対して大きな抗議運動を行いました。

高野台に時計台が登場!

当時、時計はまだ高価で、個人で持っている人は少数派でした。

そのため、公園や人が集まる場所に時計を設置することが大きな夢だったのです。

そこで、東京の服部時計店(現・セイコー)が、高野台に高さ20メートルの時計台を寄贈

このニュースは全国的に報じられ、千里ニュータウンが全国的に注目されていることを改めて示す出来事となりました。

豊津池の利権争いに続き…吹田駅周辺もきな臭くなる

前年から続く豊津池の利権争いに加え、この年は吹田駅周辺でも土地のトラブルが発生

吹田駅近くの市有地に銀行を建設する計画が持ち上がると、元々の地主同盟が「勝手に板囲い」をして占拠

阪急新千里山線(現・南千里駅)が開通したとはいえ、当時の千里ニュータウンの主な玄関口は国鉄吹田駅
そのため、吹田駅周辺の土地価格が急上昇し、利権争いが激化

翌年の大阪万博開催が決定し、こうした土地を巡るトラブルが増えていく時代に突入していきました。

佐竹台ショッピングセンター、開かずのシャッター問題

オープンから2年の佐竹台ショッピングセンター
しかし、問題となっていたのは開店当初に数日営業しただけで、ずっと閉まったままの店

その店は、コロッケや天ぷらなどの揚げ物店
店主は「儲からない」と営業をやめ、住居として居座っている

他の店舗からは「営業する気がないなら、店を譲るべき!」と批判の声が上がっていました。

シャッター街問題が騒がれるのはずっと後の時代ですが、
昭和39年の時点で、すでにこうした兆候があったことが興味深いですね。

4月— 学校の新設と教室不足の深刻化

この年、高野台小学校・中学校が開校し、児童・生徒の受け入れが始まりました。

しかし、人口の急増に伴い、1クラス50人を超える過密状態が深刻化。

吹田市は、新庁舎の建設には力を入れたものの、学校の増設には対応が遅れたため、
PTAや保護者からの不満の声が高まりました。


5月— ついに藤白台・古江台の入居開始!

5月23日、藤白台・古江台に約1,080戸、4,000人が新たに入居開始

古江台近隣マーケット&銭湯が整備され、住民の生活利便性が確保
藤白台マーケットも銭湯もなく、生活に不便で住民から不満の声

ニュータウンの開発が進む中、地区によって整備の進み具合に差が出始めました。

6月— 高松宮ご夫妻が千里ニュータウンを視察

6月1日、高松宮ご夫妻が千里ニュータウンを視察に訪問。

村田吹田市長、小笠議長が案内し、「緑7割の街づくり」をコンセプトとしたニュータウンの魅力を説明。

特に、一般住宅にも関心を持たれ、高野台3丁目の庭園付き住宅を見学するなど、
団地だけでなく戸建住宅にも注目が集まりました。

この視察の後、10月にはソ連、翌年にはカナダやドイツの要人も千里ニュータウンを訪問し、
世界的にも注目される都市計画となっていきました。


8月— ついに津雲台にスーパーマーケット誕生!

ニュータウン住民にとって、日々の買い物は重要な問題でした。

ついに**スーパーマーケット「ピーコック」**が津雲台にオープンし、
「喫茶店」も併設され、住民にとって待望の商業施設となりました。

当時の新聞でも、「買い物の後にお茶を楽しめる”豊かな生活”」と報じられ、
津雲台エリアが”お金持ちの地区”として注目を集めるようになったことが分かります。


吹田市、60歳以上の職員84名に一斉退職奨励

当時、日本の多くの自治体では定年制度がなく、60歳以上の職員が多数在籍。

吹田市は、60歳以上の職員84名に一斉退職を奨励し、
退職金の平均は**113万円(現在の価値で約1,000万円相当)**と報じられました。

しかし、
なぜか吹田消防署長と次長だけは「顧問」として残留することが発表され、
一般職員は切られたのに、署長や次長は残るのか?」と住民の間で批判が起こりました。
やはりいつの時代も一緒。

10月— 大阪大学移転をめぐる”地上げ問題”

千里ニュータウンには、大阪大学の移転計画も進行していました。

しかし、計画が発表されると、阪急グループが移転予定地を事前に買い占め
土地価格が予定の坪12,000円から15,000円に高騰。

この結果、
・税金が阪急に流れる構図になり、住民から反発
・「情報を漏らした人物が賄賂を受け取っているはず」との疑惑

ニュータウンの開発が進むにつれ、利権問題が表面化し始めていました

野犬が増加— 幼児を公園で遊ばせられない事態に

千里ニュータウンの人口増加とともに、野犬の数も急増

子どもや女性が襲われる被害が続出
野犬の死骸や糞尿による衛生問題も深刻化

新聞の調査によると、千里ニュータウンには300匹以上の野犬がいると推定されていました。

住民は吹田市に対策を求めたものの、本格的な野犬駆除が始まるのは翌年から。
幼い子を持つ親たちは、恐ろしくて公園で遊ばせることすらできなかったといいます。

高野台に待望の銭湯オープン!

ニュータウンの団地には浴室がない家も多く、銭湯は生活必需品でした。

高野台に念願の**「寿湯」**がオープンし、住民たちは大喜び。
これまで、佐竹台の銭湯は毎晩大混雑で「芋の子を洗うような状態」だったため、少しでも緩和されることが期待されました。

しかし、藤白台には銭湯がなく、住民は古江台まで足を運ぶ必要があり、依然として不便な状況が続いていました。

商業戦線が加熱!千里丘センターの入店希望者が殺到

大阪ガスや銀行などの大手企業の入店が決定した後、
今度は一般の店舗向けの入店説明会が開催されました。

なんと、説明会には1,000人を超える人々が殺到

この時点で、千里ニュータウンの中心地は**「新千里駅(現・南千里駅)」
しばらくは
南千里がニュータウンの商業の中心になる**と誰もが信じていました。

7月— 分譲地に”空き家放置”問題が発生

津雲台は、千里ニュータウンの中で初めて分譲住宅が販売されたエリア

しかし、厳しい審査基準があったため、住民の支払い能力が確認される一方で、
**「手付金欲しさに不正を働く者」**も出てきました。

・ある病院の事務長が病院の資金を横領し、住宅の手付金に充てる
・しかし、横領が発覚してしまい、家が建設途中のまま放置される

この家は所有者不明の状態になり、周囲の住民は
「火事になったらどうするのか?」と不安を募らせました。

ニュータウンの発展とともに、不正やトラブルが増え始めていたのです。

8月— 電話は贅沢品!公衆電話ボックスが増設される

この年、藤白台・古江台の入居が始まり、住民は2万人に迫る勢いでした。

しかし、当時の家庭には電話が普及しておらず、一般家庭で電話を持っているのはわずか5%

そこで、住民の要望に応える形で公衆電話ボックスが増設されました。

📞 設置された場所(計8カ所):
✅ 佐竹台、高野台、津雲台、古江台の近隣センター
✅ 新千里山駅(現・南千里駅)
✅ 高野台小学校
✅ あやめ橋(津雲台側南詰)
✅ 藤白台1丁目バス停

また、新たな電話架線状況も発表されましたが、
一般家庭向けの新規電話開通は年間わずか200件ほど
藤白台では一般家庭向けの電話はゼロという状況でした。

9月— 20代男性が”天国”状態?異常な男女比率

戦争の影響か、世代ごとの男女比に大きな偏りがありました。

佐竹台の人口データによると、

・20代男性 → 477人 / 20代女性 → 791人
・30代男性 → 804人 / 30代女性 → 543人

20代は男性より女性の方が多く、30代になると逆転するという不思議な現象が起きていました。

20代男性にとっては**”女性が多く、出会いに困らない時代”**だったのかもしれません。

10月— 千里ニュータウンで”下駄禁止令”が発令!

当時、男性の履物として**「下駄」**が一般的でした。

しかし、団地の階段や廊下での騒音が大問題に。

住民からの苦情が相次ぎ、
2階以上に住む人は下駄を脱ぐか、草履に履き替えるように!」と注意喚起がされました。

確かに、木造の団地で下駄を履いて歩けば、相当な騒音になったことでしょう。

無免許運転天国”だった千里ニュータウン

千里ニュータウン内の府道は、当時まだ中央分離帯がなく、広々とした道路でした。

🚗 その結果…
「運転練習場」と化し、近畿一円から若者が押し寄せる
バイクで猛スピードを出す者も続出
無免許運転が日常化

吹田警察署が取り締まりを強化し、6月だけで150件の無免許運転を摘発
しかし、実際には無免許運転が減るどころか、建設業の職人までも無免許で車両を運転する状況だったそうです。

この問題が深刻化し、死亡事故や小型ダンプの横転事故が発生。
住民からはさらなる取り締まり強化を求める声が上がりました。

吹田給食”腐敗弁当”事件発生!

この年、千里ニュータウンの給食を担当する**「吹田給食協同組合」**が大問題を起こしました。

冬場だからと油断し、腐敗したスパゲッティを提供
苦情に対し、「腐っていない部分だけ食べればいい」と回答

新聞には、苦情を受けた際の衝撃的な謝罪文が掲載されました。

「スパゲッティーが腐っていたので、その隣にある魚の天ぷらも食べられず、
結局、漬物しか食べられませんでした。誠に申し訳ありません。」

これが謝罪?とツッコミたくなるような対応ですが、
当時はそれで済んでしまったのが昭和39年の時代背景を物語っています。

まとめ — 発展の裏に潜む課題

昭和39年の千里ニュータウンは、前年と比べると平穏な一年に見えましたが、

新たな地区(藤白台・古江台)の誕生
人口増加による学校不足や行政の混乱
野犬問題、土地の利権争い、腐敗弁当事件

など、発展に伴う課題も顕在化した一年でした。

ニュータウンの開発が進むにつれ、住民の生活は便利になっていく一方で、新たな問題が次々と生まれていく——
そんな時代の変化を感じさせる年だったと言えるでしょう。

次回は、昭和40年の千里ニュータウンを振り返ります!

千里ニュータウンの歴史を振り返るこれまで千里中央の現状や新しいお店の開店、閉店情報を配信しておりましたが、今回過去も振り返ってみようと、昭和37年から千里ニュータウンの歴史を発信してきた「千里タイムス」から記事を抜粋して、その時の状況に想いを馳せたいと思います。...