1985年8月28日 迷い道
午前0時過ぎ。
さすがに交通量は減ってきた。
道は広く、平坦。
走りやすいはずなのに——身体が重い。
ペダルを踏んでも、力が入らない。
眠くはない。
でも、だるい。
まるで”ロボット”みたいに、ただ無心でペダルを漕いでいた。
「岐阜10キロ」!?!?
そんなとき——
視界の端に、ある看板が飛び込んできた。
「岐阜10キロ」
……え?
一瞬、思考が止まった。
「岐阜???」
「いやいや、俺が行くのは三重・滋賀・京都やろ!?」
完全にルートを間違えていた。
暗くて標識が見えず、知らぬ間に迷い込んでしまったらしい。
「マジかよ……」
どこで道を間違えたのか?
このまま岐阜に行くのか?
いや、戻るべきか?
考えがまとまらないまま走っていると——
前方に 24時間営業のハンバーガーショップ が見えてきた。
深夜のハンバーガーとルート確認
「よし、ここで一旦休憩や。」
僕は店に入り、ハンバーガーを注文。
残金、千数百円。
「もう食費で使えるのも今日の朝昼分だけやな……。」
トレーを持ち、席に着く。
とにかく、ルートを確認しよう。
しかし——ここで問題発生。
「……暗くて地図が見えん。」
手元の「東日本地図」は、愛知と岐阜までは詳しく載っているが、それより西はほとんど情報がない。
「あかん、肝心の三重と滋賀が分からん……!」
ランタンをつければ、かろうじて文字は読める。
でも、地図の細かい道まで把握するのは厳しい。
「このまま岐阜ルート?」or「国道1号線に戻る?」
とりあえず、今いる場所は 「国道22号線」 だと分かった。
「なるほど、そりゃ岐阜に向かうわけや……。」
そこで、改めて考える。
「このまま岐阜経由でもいいのか?」
岐阜ルートを地図で確認すると——
「……あかん、こっちの方が遠いし、峠もキツそうや……。」
距離は不明だが、どう考えても 「1号線に戻った方が早い」。
「ダメだこりゃ。戻るぞ。」
ハンバーガーを食べ終え、僕は結論を出した。
「このまま岐阜に行くのはリスクが高すぎる。」
「1号線に戻るしかない。」
深夜のファストフード店。
BGMが静かに流れ、店内はまばらな客がいるだけ。
僕は、冷めかけたコーヒーを飲み干し、席を立った。
「よし、仕切り直しや……!」
再び、ペダルを踏み出した——。
空気の抜けたタイヤ
午前2時。
さすがに交通量は減ってきた。
だが——
脚が重い。いや、身体全体がだるい。
「徹夜で走れば、その分早くゴールできる。」
そう考えていたのに——
「……これ、かえって効率悪くないか?」
まっすぐ走っているつもりが道を間違え、身体は思うように動かない。
「やっぱり無理があったか……。」
そんなことを考えながら、ふと 「ペダルが妙に重い」 ことに気づいた。
「……あれ?」
いや、これは単なる疲れじゃない。
僕は自転車を停め、前後のタイヤを押してみた。
「うわ、空気めっちゃ抜けてるやん!」
疲れは感覚を鈍らせる
ここまで空気が減っているのに、気づかなかったなんて。
やっぱり疲れてるんだ。
「こりゃ、徹夜はアカンな……。」
でも、あと3時間ほどで夜が明ける。
今さら野宿するのも難しい。
「とりあえず、空気を入れてみるか。」
ポンプを取り出し、シュコシュコと空気を入れる。
……が、なかなかパンパンにならない。
入れているそばから抜けていくような感覚。
「これは……チューブか? それとも虫ゴム?」
「いや、多分虫ゴムやな。」
真夜中の修理
僕はランタンに火を灯し、慎重に虫ゴムを取り替える。
「……暗闇での修理は気を使う。」
こんな状況で部品を落としたら、もう最悪だ。
地面に這いつくばって探す羽目になる。
何とか交換を終え、ゆっくりとポンプで空気を入れる。
「よし、これで大丈夫そうやな……。」
「終わりが見えてきた。でも……」
僕は近くのバス停のベンチに腰を下ろした。
水筒はもう空。
どこも店は閉まっている。
仕方なく、自動販売機で NCAA というスポーツ飲料を買った。
喉を潤しながら、ぼんやりと考える。
「今日で旅が終わる。」
ずっと 「早く帰りたい!」 と思っていたのに——
「いざ終わるとなると……何か寂しいな。」
ウトウト→衝撃的な目覚め
しばらくすると、疲れがどっと押し寄せてきた。
気づけば ウトウト……ウトウト……
「……ん? 俺、今どこ走ってる?」
夢と現実の境目が曖昧になり——
まるで 「自転車を漕いでいる感覚」 が蘇る。
「ヤバい、トラックにぶつかる!!」
その瞬間——
「グオオオオオオオオ!!!!!」
轟音とともに、大型トラックが横を通り過ぎた。
ビクッ!!!
僕は反射的に飛び起きた。
「……夢か。」
鼓動が速い。
「マジでぶつかったかと思った……。」
やっぱり、徹夜走行は危険すぎる。
「……もう行こう。」
僕は立ち上がり、タイヤを確認する。
「空気、抜けてへんな。……よし。」
旅の終わりに向けて、再びペダルを踏み出した——。
鈴鹿峠、最後の試練
午前3時半、木曽川を渡る。
三重県に入った。
街は眠りについている。
時折、遠くからトラックのエンジン音が響くが、車はまばら。
「……まるで、世界で自分ひとりだけが起きているみたいだ。」
国道を独り占めして走る感覚。
まるでこの広い道が、僕だけのものになったような錯覚に陥る。
だが、それは同時に孤独を突きつけられる時間でもあった。
「朝が来る!」
午前4時半、四日市市に到着。
東の空がわずかに白み始めていた。
「やっと朝が来る……!」
暗闇の中を何時間も走り続けた僕は、心からホッとした。
この旅で、僕は何度も夜を走った。
だが、やっぱり夜の道は心細い。
「明るいだけで、こんなにも気持ちが楽になるんやな……。」
身体は疲れていたが、少しずつ気力が戻ってくるのを感じた。
「鈴鹿峠? 何それ?」
午前5時、24時間営業のコンビニを発見。
客は誰もいない。
静かな店内で、おにぎりを3つ購入。
「……腹減ったなぁ。」
店の外にベンチがあったので、腰を下ろして頬張る。
「うまい……!」
身体の隅々まで、エネルギーが染みわたるようだった。
すると——
コンビニの店員のおじさんが、ふいに外へ出てきた。
「どこに行くの?」
客のいないカウンターを放り出して、僕に話しかけてくる。
「大阪に帰るところです。」
「えーっ、じゃあ鈴鹿峠を越えていくんだ!」
「……鈴鹿峠?」
僕はおにぎりを口に入れたまま、店員を見た。
「えっ、何それ?」
「まさかの難関、登場。」
「うん、ここから滋賀県の草津に抜ける峠なんだけど、かなりしんどい峠だよ。」
「峠!? ここに来てまだあるんかい!」
僕は完全に油断していた。
「えっ、それって箱根峠ぐらいキツいんですか?」
「それは分からないけど、有名な難所の峠なのは間違いないよ。」
……マジか。
自宅まで あと140キロ。
「よっしゃ、今日は楽勝でゴールや!」と、気軽に考えていたのに——
まさか 「有名な難所」 が待ち構えているとは。
「……いや、待てよ?」
これまで何度も峠を越えてきた。
箱根峠、中山峠、美幌峠、三陸のアップダウン地獄。
どれも厳しかったが、結局、僕はすべて乗り越えてきたんじゃないか。
ならば——
「鈴鹿峠? 上等やん!」
僕はニヤリと笑った。
簡単に走り切ってしまったら、旅の締めくくりとしては物足りない。
「よしっ、走ってやろうじゃないか!」
そう覚悟を決めると、むしろワクワクしてきた。
「ありがとうございます!」
僕はおじさん店員に礼を言い、力強くおにぎりを頬張った——。
宿場町・関と眠気の魔力
午前6時、亀山駅を通過。
そしてすぐ先に、旧東海道屈指の宿場町・関駅 に到着した。
駅周辺には、「日本最古の地蔵院」 など、歴史を伝える看板がいくつも並んでいる。
関駅の雰囲気も、どこか厳かだ。
江戸時代の旅人と同じ道を行く
僕は駅舎に入り、備え付けのスタンプをノートに捺した。
「宿場町 関」 の文字が刻まれた、立派な赤い印影。
「おお、これはなかなか……!」
つい見入ってしまう。
鈴鹿峠の玄関口として、ここを通る旅人たちは昔も今も同じなのだ。
江戸時代の旅人も、この場所で一晩を過ごし、「明朝、いよいよ峠越えだ……!」 と覚悟を決めたのだろう。
それを思うと、僕も自然と背筋が伸びた。
「よし、俺も行くか!」
……そう思ったのも束の間——
眠気の誘惑、そして沈没
「……ちょっと疲れたな。」
夜通し走った疲労が、じわじわと押し寄せる。
「いやいや、ここで休んでる場合じゃない……!」
そう思いつつも、ベンチに腰掛けた瞬間——
「……っ!!」
気がつくと 身体がずり落ち、危うくベンチから転げ落ちそうになっていた。
時計を見ると 午前7時半。
「やばいやばい!!」
思わず飛び起きた。
たった1時間の仮眠。
だが、驚くほど体力が戻っている。
「すいすい走れる!?」
自転車にまたがり、ペダルを踏む。
すると——
「えっ、めっちゃ進む!」
今朝までの体のダルさはどこへやら。
「たった1時間寝ただけで、こんなに違うのか……!」
昨夜は眠さと疲れでまともに動かなかった脚が、今は軽快に回っている。
「……やっぱり、休息って大事やな。」
思いがけず 江戸時代の旅人たちと同じように、峠越え前に力を蓄えることができた。
「よし! 鈴鹿峠、行くぞ!!」
僕は勢いよく自転車を漕ぎ出した——。
大きな忘れ物
沓掛という辺りを過ぎると鈴鹿峠を目指す国道1号線は二手に分かれた。
上り道と下り道が別々になったのだ。
しかもほとんど車は通らなかった。
僕は坂道で自転車を立ち漕ぎをして左右に振る動作も遠慮なくすることができた。
そしてありがちなクラクションを鳴らされる事もなかった。
約380メートルの鈴鹿峠。
コンビニのおじさん店員に忠告され覚悟していたせいで意外にキツイと感ずる事なく峠を制覇できた。
さぁ、記念に写真を撮ろう。
僕は自転車を停めて、カメラを取り出そうとした。
あれっ、リュックがない!?
「あっ!関駅や!」
ベンチに座るときに下ろしたリュックの残像が目に浮かんだ。
やってしまった。
「一瞬もういいか、」と思ったがリュックに入っているものが思い出される。
カメラ、ノート、
「アカン、アカン、」ぼくはUターンして関駅に戻ろうとした。
すると、正面から来る車がクラクションを鳴らす。
そうか、ここは対向車線か。二手に分かれた上り坂と下り坂。
僕は上り坂を進んできたわけだが、この道をそのまま折り返すということは逆走するという事だ。
通常の道と違って上がってくる車にとっては反対からたとえ自転車であっても来るはずのない対向車である。
その為無条件でクラクションを鳴らしてくるのだ。
先ほどは乗用車だったが、時折やってくるダンプは怖い。
しかも午前8時を過ぎて、上って来た時より俄かに交通量も増えている。
「ダメだこりゃ。」
僕は自分の愚かさに悪態をついて自転車を停めた。
自転車の通常の鍵、チェーンの鍵を掛けて、僕は徒歩で関駅を目指した。
見覚えのある建物、そして風景にガッカリしながら、また反対側から歩くと気づかなかった発見に驚きながら沓掛という場所に1時間掛けて戻ってきた。
国道1号線が一つになると、そこからの道路には歩道があった。
僕は歩道を歩いて関駅を目指した。
リュックと再会
午前10時半、鈴鹿峠から徒歩で関駅に戻ってきた。
私のリュックは駅員さんに聞くまでもなく、私が置いたままの状態だった。そうか、盗られていたらどうしようかと心配したが、触れられすらしていなかった。
完全無視のリュックが愛しく思えた。
「ごめんな。」
一緒にきたんだから、一緒に帰ろうな。
僕がリュックを背負うと、リュックは僕の背中にしがみついてくるような気さえした。
この旅で友として選んだ僕のリュックは少し特殊だった。
通常の物を入れる他に折りたたみ椅子が一体化しているリュックなのだ。
その為、通常のリュックより重く、しかも背負い辛い形状をしていた。
折りたたみ椅子のアルミの素材が肩や肩甲骨に当たって、旅の当初は痛くて送り返すか、捨てようかとさえ思った事もあった。
しかし、椅子の無いところで飯を食ったり休んだりしているうちに、このリュックで良かったと思えたことが度々出てきて、最後までこのリュックと過ごして来たのだ。
ただ、大きな発見もあった。
今回の鈴鹿峠、リュックが無かったから滅茶苦茶走りやすかったぞ!という事だ。
身体の軽さが違った。また背中の暑さが違った。それによって汗の出方が違った。
そう、自転車を漕ぐ際に出る汗とは別に、背中に熱がこもって大量に汗をかいていたということが分かったのだ。
そうか、リュックを担いでの自転車は良くないんだな。
最後の最後に分かるなんて、これもまた自分らしいと笑えてきた。
再度、鈴鹿峠を目指す
関駅を出て歩き出す。峠から降りてくるのに1時間40分掛かった。上り坂だともっとかかるな。2時間半掛かったとして午後1時。これは明るいうちに大阪に着くのは無理だな。一度は諦めて笑っていたが、到着時間を考えると自分への怒りがぶり返してきた。
私は走ったり、歩いたりしながら鈴鹿峠を目指した。
駅を出て次第に人気も無くなってきた。そして朝よりは過ぎ去っていく車両たち。私は乗用車がやってきたら親指を立てて「ヒッチハイク」のポーズを取った。
当然停まる車などない。
本気で停まって欲しいと思うでもなく、ただ国道を歩いているのが面白みなくて、暇つぶしといった感じで車の音がすると振り向いて車の雰囲気を判断し、手を挙げるかを選別。合格なら手を挙げる。車が通り過ぎさる。手を下ろす。を繰り返していた。
関駅から30分ほど歩いただろうか。白い乗用車に手を挙げると私の横に停車した。
「お!ホンマに停まった。」私は予期せぬ出来事に思わず呟いた。
運転手は50歳くらいのおじさんで、顎で乗りなさいという仕草をした。
私は頭を下げて、背負ったリュックを手に持ち替えて助手席に乗り込んだ。
クーラーの効いた車内に感動し、「おー!」と声を上げた。
それに反応せず、おじさんは「どうしたの?」と開口一番聞いてきた。
私はどう説明すればいいのか分からず、とにかく関駅にこのリュックを忘れて取りに戻った話をした。
「えーっ!そりゃまた呆れたなぁ。こんな変わった派手なリュックを忘れるなんて相当だよ!」私も同感だ。こんなものを忘れて、約10キロ気付かず鈴鹿を走っていたなんて相当ですよねと思った。そのまま伝えるとおじさんは大きく笑った。
「ところで、関宿場町はどこに行ったの?」
私はどこにも行ってない事を伝えると勿体無いとでも言いたげだった。
また、おじさんは私がてっきり草津辺りまで乗っていくのだろうと思っており、ゆっくり話す気でいたようだ。自分がもう隠居のような生活をしていて、全国を車で回っていてと話し出した。私は自分の自転車が無事か、そして車だとあっと着くだろう、通り過ぎてはいけないと下ろしてもらうタイミングが気になって仕方がなかった。
乗せてもらってから僅か20分足らず、鈴鹿峠の少し手前「第二坂下橋」で降ろしてもらった。乗せてもらった場所から2時間はかかると思っていたので、本当に助かった。
車のおじさんはようやく事が飲み込めたようだった。
「なるほど、自転車でここまで来て、途中休んだ関駅でリュックを忘れて歩いて戻ったのか!そりゃ、一方通行で戻るにはヒッチハイクも出来ん、自転車で戻るのも危ない。それは大変だったねー。」
私は照れ笑いするしかなかった。
「で、その自転車でどこ行くの?」
「帰るところなんです。」
「じゃぁどこ行ってたの?」
「北海道です。」
「えーっ!?」
話が終わりそうにないので、私は今日中に帰らないと夏休みも残り少ないのでと手短に言って自転車の鍵を開けた。
「そうか、気をつけてな。」
私は深々と礼を言って、おじさんの車が去るのを見送った。
20分足らずでもクーラーの効いた車内から外へ出ると熱帯地獄だ。
私は再度鈴鹿峠を目指して走った。
鈴鹿峠からここまでは戻って来たんだなと思うと同時に、先ほどまで車の助手席で上がって来たことを思い出した。こんな片側通行の道を自転車が逆走してきたら、そりゃクラクション鳴らしまくるわな。私は改めて納得した。
鈴鹿峠を越え、トンネルを越え、12時滋賀県入りした。
正午、草津市。
ここで最後の食事を取ることにする。残金は1000円を切っていたが、日没までには自宅に到着できるだろう。私は豪勢に焼肉定食を食べた。肉が恐ろしく旨かった。歯だけでなく、胃袋も肉を噛んでいるのではないかというくらい身体全体が肉を旨がっていた。
最高の昼飯を食って身体が喜んでいた。ペダルを踏む足が徹夜とは思えないほど動く。
「大阪70キロ」の標識が目に飛び込んできた。
もうカウントダウンが始まった。出発してから33日目、標識一つにこれほどの感動が全身を駆け巡るとは思ってもみなかった。
大津市から京都山科へ向かう。
行きは京都から滋賀県境越えで散々迷って苦しんだ。しかも坂道と交通量の多かったトンネル。帰りはスムーズで、峠があったことすら分からないほどスムーズな走りで駆け抜けた。
2時過ぎ京都入り。鈴鹿峠からここまで恐ろしいくらいのペースで走ってこれた。
しかし、京都に入って道が分からなくなってしまった。
東京でも名古屋でも大都市にありがちな、道が多くありすぎて、何処からでも目指せる為に道案内の看板がどれもこれも当てにならない現象になってしまったのだ。
例えば京都入りして大阪に行きたい隣ると、1号線と171号線、どちらも大阪方面を目指している。しかし実際は違うルートなので、「大阪」という表記を目当てに走っていると、矛盾のある標識が出てくるのだ。大阪と書いていたので走っていると大阪ではなく、いつの間にか間にか「八幡」や「枚方」になる。吹田を目指している私には枚方は東寄りなのでもう少し西側の高槻を目指したいのだが、地図がないと全体図がわからないので走っていて不安になってくるのだ。とにかく171号線に出たい。
全く分からずスーパーに入って171号線を尋ねた。店員の男が、うーん、ややこしいからねーと、どう説明すれば良いのかと首を傾げた。
どうやら1号線から171号線に抜ける道を一言で説明するには地元に人でも困難ということは確かなようだ。桂川と宇治川と木津川が原因で複雑な道路形成となっているらしかった。
仕方がない。道案内を諦めて取り敢えず大体の勘で走ってみよう。
何処をどう走ったかさっぱり分からなかったが、国道171号線大山崎までやって来た。
午後4時、大阪府島本町入り。自宅まで30キロほどになった。
私はもう着く時間さえ予測できるところまで来たので、自宅に電話をした。
すると、驚きの知らせを聞いた。私がミニサイクルで北海道まで行った事を聞き付けて新聞社が帰る事がわかったら連絡してくれと言われてるという。何のことか分からないがもうすぐ帰るなら新聞社に今から連絡する。もしかしたらアンタ新聞に載るかもしれへんでとの事だった。ん?
電話を切って再び自転車を漕ぎ出した。
走りながら考える。これまでみんなのエール。例えば、小平ユースの「あんたは凄い!」と書かれた紙包のおにぎり。八戸の涙ぐんで話を聞いていたアニキ2人。カプセルホテル代を出してくれた怖い兄さん。大したもんだー!と言ってくれた中村雅俊。
そうか、もしかしたら新聞に掲載されるくらいの旅だったのかもしれない。
実際掲載されるかどうかはさておいて、とにかく安全に帰らなくては。
自分の母校のすぐ近くを走った。5時過ぎ、この時間なら誰か先生がいるかも知れない。私は母校に立ち寄ろうかとも考えた。しかしすぐに考えを改めた。行ったら宿題はやったんか!と言われるに違いない。気が滅入るだけだと通過した。
箕面の今宮交差点を突っ切り、国道423号線を目指した。
すると一台の自転車が私を追っかけてくる。ロードレースタイプの沢山ギアのある自転車に乗った私と同じくらいの青年だ。ついに彼は私に並走し、
「北海道に行って来たんですか?」と声をかけてきた。
「うん。」とだけ言う。すると彼は自分もサイクリングが大好きだという。
だろうねぇ、その自転車だもんねー。と思いながら私は「ふーん。」とだけ答えた。
その後、石橋から梅田まで10分で走った事あるとか、タイムアタックのような事をしきりにしていると言う。それをするには夜中の3時が一番車が少なくて良いなど、立板に水の如く話しかけて来た。
速く走るのと遠くへ走るのとはちょっと違うからなぁ。と言って彼に何処の学校?と聞いてみた。すると私と同じ高校名が口から出て驚いた。一つ下の一年生だと言う。
そうか、じゃぁ縁があれば学校で会うかもなと別れた。
それにしても見ただけで興味を持たれて、「北海道に行って来たんですか?」と聞かれるとはよほど目立つんだな。確かに車にぶつかられないよう旗を立てていて派手ではあるが、毎日見ている私には気づかないが、他人から見ると異様なのかも知れない。
午後6時、服部緑地公園の噴水広場を走っていると、大学生らしき一団が私に向かって
「がんばれ〜!」
「フレッフレッ!」と声援を送ってくれた。
このノリ、まさしく大阪ぞ!
私の心は熱くなった。帰ってきた。帰ってきた。
帰ってきてしまった。
母校を過ぎてからずっとそうだが、既に見慣れた風景ばかり。
中学生や小学生の頃からの思い出までが浮かんで来て、たった1ヶ月なのに相当な時間が経ったような、まるで浦島太郎のような気分さえする。
そうかと思うとまるで出発したのが昨日のようにも思える。
相当昔、いや昨日のよう。到底混ざり合わない異質のものを無理やり混ぜ合わせ馴染ませようとしているようだ。あと、2キロ。
急に焦りが出てきた。
昨夜もう終わりかと思うと寂しい感情が込み上げた。
しかし、帰らねばという気持ちも半分はあった。苫小牧から本州に渡ってからは夏休みの期間までに帰らねばという切羽詰まった気持ちが大きかった。北海道では毎日が充実していた。大阪から青森までは早く北海道の地に立ちたくて仕方がなかった。私は旅を逆戻しにしていた。そうして出発した自宅までもうすぐそこと思うと、まだ帰りたくないと言う気持ちが心を覆った。そうか、私はまだ本当の意味で帰る心の準備が整っていなかったのだ。このような長くて挑戦的な旅は初めてだった。だから終え方も初めてだったのだ。私はそれに気づいて、急に焦り出したのだ。
冗談ではなく、本気でこのまま西日本一周に出ようか。と考えてみた。ただ金もない。そして学校に行かないと決断する勇気もない。結局私は一つの旅の終わりを認めるしかないのだ。一つの旅の死を私は見届けなくてはいけないと覚悟して自宅を目指した。
午後6時28分、帰宅。
大阪日日新聞が私の帰宅を待ち受けてフラッシュ攻めにあった。
翌8月29日には吹田市役所にある記者クラブに呼ばれ写真撮影と取材を受けた。
8月30日、読売、朝日、大阪日日新聞に三段抜きの写真と共に旅行記が掲載され9月1日の二学期初登校日は学校中の話題となっていた。
新聞で次は西日本を走りたいと話し、そのまま掲載されたので、1987年もママチャリで西日本を走ることになった。
私の当初の「海外へ!」の目標はその後になった。