「建前教育」と「本音教育」
私たちは早い段階で「社会性」を教育されます。
生まれた時から一人で生きてはいけないので、
まずは家庭という小さな枠組みでルールを教えられ、
次に幼稚園、学校で一般教養、常識などを暗黙の了解で分かるように躾けられるのです。
この教育は間違ってはいないでしょう。
何故ならば、社会に関わって生きていく以上、
そのルールに従わなければならないからです。
なので、この教育というのは、
「社会教育」であり、
謂わば「建前教育」とでも表現すべき、
社会一般的な世間体を重視したものだからです。
そして、この「建前教育」の対局に位置するのが、
「本音教育」、つまり実践的教育があって、
本来はその両方を学んで、うまく使い分けるという事が必要だと思うのです。
しかし、この「本音教育」を学ぶ場は何処にもなく、
ある限られた家庭か、
運よくそれを教えてくれる人物と関わりが持てた人のみが学べるという
とてもレアな教育です。
その本音教育に触れられなかった人々は、
建前教育一択でこのジャングル現代を生き抜くことになりますから、
とても生きづらい世の中となります。
何故生き辛いかと言うと、
「建前教育」だけで人生を歩むのは
「正直者が馬鹿を見る」と言う生き方を貫く危険性があるからです。
では本音教育だけで人生を歩むのはどうでしょう?
これもまた生き辛く、
波瀾万丈の「炎上人生」が待っています。
結局のところ、
「本音」は私たちの内なる真実、欲望、そして情熱を表し、
いわゆる裸の状態です。
裸で出歩くと猥褻物陳列罪等、法に触れるので「建前」が必要です。
「建前」は社会的な調和を保つための必要なマスクやフィルターとして機能し、
謂わば外に出るなら服を着なさい!ということですね。
日本の優秀な建前教育
建前教育は、社会の規範や期待に沿った振る舞いを学ぶプロセスであり、
公の場での適切な振る舞いやマナー、
一般常識などを身につけることを目的としています。
それを考えると、日本は世界で最も優秀な「建前教育」がなされていると言えます。
災害時でも秩序を保ち、おとなしく列に並ぶと言うことが
世界で評価される日本人の国民性。
これは紛れもなく「建前教育」が浸透している結果です。
このように建前教育は、社会の一員として円滑に機能し、
他者との関わり合いの中で衝突を避け、共生するために必要な教育です。
しかし、この教育が過度に強調されると、
個人の本音や自己表現が抑圧され、
社会の表面的な調和を保つために自我を犠牲にすることになりかねません。
ただ、社会や政治の力で建前教育を否定することはできません。
その方が秩序を保ち、安全な社会形成に役立つからです。
日本のように単一民族で形成する国では、
この建前教育は効率的です。
社会通念や常識を均一に共有し、固定観念を強化できる一方で、
多様性や個人の自由を制限することにつながります。
日本の幼少期から建前教育が家庭でも行われる成果として、
好きな事が見つからない、
趣味がないといった悪影響もありますが、
その反面、この単一的な社会に反発するように、
漫画やアニメ、特撮などの独特な文化を生み出す力もあります。
私たち日本人は、
目立たないだけで実は根はかなり斬新的で空想的なのです。
だから、恐らく多くの人が「建前社会」に嫌気を覚えていることでしょう。
自己探究は本音探し
社会が与えてくれるのは「建前教育」です。
誰もあなたの事を真摯に受け止め、教えを与えてくれません。
親でさえも、こういう子供の親になりたいという、
「親の希望」を押し付けてきます。
したがって、本音教育は自ら探さないといけないのです。
本音教育は、
個人が自分自身を深く理解し、
自分の価値観や信念に基づいて意思決定を行う能力を育むことを目的としています。
だから「自分探し」は自分の本音探しとも言えます。
自己実現や自己表現のための土台を形成し、
「建前教育」のスキルはあくまで対人関係において使うもので、
「本音教育」で手に入れたスキルは、
自由で自律的な生き方を可能にするのです。
イーロンマスクや堀江貴文氏など、
多くの成功者が本音を全面に押し出します。
押し出しすぎて、反社会的になり逮捕されることもありますが、
目的や行動に迷いがなく、力強く生きているように見えます。
建前と本音のバランスを見つけ、
両者をうまく統合することは、
私たちが社会の中で自分らしく生きるための鍵となります。
自分の内面に真摯に向き合い、自己理解を深めることで、
建前と本音の間での自由な航行が可能になり、
自己実現への道が開かれるのです。