エルトンジョン

エルトンジョン:オールタイムランキング TOP75

15位 ”Border Song” (‘Elton John,’ 1970)

Border Song “は、悲痛な嘆き、まるで懺悔のようなセリフから始まります。
音楽的にはゴスペル調、
平和への願いを込めた荘厳な作品です。

3分半弱の長さにもかかわらず、まるで長編作品のように感じられるのは、
ジョンの優しいヴォーカルの重厚さと、
ポール・バックマスターの壮大なオーケストラ・アレンジのおかげでしょう。

1970年のエルトン・ジョンのファースト・シングルとして、
この曲をリリースしたことには疑問が残るが(Hot 100で92位、続く「Your Song」が初の全米トップ10入り)、
「Border Song」は今でも彼の最高傑作の1つであることは確かである。

また、この曲は2年後、
アレサ・フランクリンの名盤『Young, Gifted and Black』でカバーされ、Hot 100ではトップ40に入るなど、素晴らしい結果を残している。by – J.L.

14位 ”Don’t Let the Sun Go Down on Me” (With George Michael) (‘Duets,’ 1991)

エルトン・ジョンのようにヒット曲で知られるアーティストにとって、
ある作品のライブ演奏がオリジナル・バージョンを上回り、
ほぼ全世界から称賛されることは稀なことです。

しかし、1991年のCover to Coverツアーで、
親友のジョージ・マイケルがジョンを呼び寄せたとき、その奇跡が始まりました。

その頃、エルトンは断酒による活動休止の最中でした。
にも関わらず、ジョージマイケルはエルトンをライブに呼んだのです。

この奇跡のデュエットで歌われたのが70年代のヒット曲
「Don’t Let the Sun Go Down on Me」

その時思い出されたのは、当時から更に6年前のライブ・エイド
この時にジョンはマイケルをステージに招いて
同曲を演奏し絶賛されました。
まさにこのデュエットはこれの恩返しだったのです。

互いを引き立てるボーカルの組み合わせと、
エルトン復活のドラマを盛り上げるプロダクションの演出。
(レディース&ジェントルメン、Mr.エルトン・ジョンです!」の驚きの紹介から始まる
デュエットバージョンはオリジナルのHot 100の2位を上回り、
1992年2月にチャートの頂点に立ちました。by – S.D.

13位 ”Saturday Night’s All Right For Fighting” (‘Goodbye Yellow Brick Road,’ 1973)

ドラムロールから始まり、エレキギターのリフ、
エルトンのピアノ、そしてヴォーカル……。

ライブでも定番の本作、
サタデーナイト〜という作品自体が、作品の中で登場する機関車(ディーゼル機関車とでも言うのだろうか)そのものであり、
まるで走り続けるほどに勢いを増していくのだ。詩の内容も音楽も!である。

この曲は、純粋なアドレナリンと
爆発的なテストステロンが爆発したもので、私たちの心をとらえて離さない。

私はこれに匹敵するロック・ソングをほとんど聞いた事がありません。
若者の喜びと油断のない攻撃性が混ざり合った作品。

“Saturday Night “は、まさに今を生きることだけを考えている…。
土曜の夜は罪のため、日曜は償いのため。

1973年にビルボードホット100の12位にランクインしたときと同じように、
50年近く経った今でも、この曲で弾む気持ちはまったく抑えがたい、
とにかく即効性のあるサウンドだ。by – M.N.

12位 ”Mona Lisas and Mad Hatters” (‘Honky Chateau,’ 1972)

バーニー・トーピンが初めてニューヨークを訪れた時に影響を受け書かれた作品。
ベン・E・キングの名曲「スパニッシュ・ハーレム」の言葉も引用しているバラードである。

エルトンの美しいボーカルだけでなく、
デイビー・ジョンストーンのマンドリンワークも特筆すべき点である。

“Mona Lisas “は、ニューヨークの住人の顔は笑っても目は笑っていない表情と
それでも体裁だけは紳士を気取ってハットを被っている”hatters”
“sons of bankers, sons of lawyers” who “turn around and say good morning to the night “
「銀行家や弁護士の息子が夜の街に向かっておはようと言う。」など、
トーピンの暗い一節が
エルトンの繊細なメロディーと優しいボーカルで
希望の言葉へと変わり紡いでいく。

エルトンジョンが7作連続でNo.1を獲得した最初のアルバムとなる
1972年の『ホンキ・シャトウ』に収録された本作は
シングルとしてリリースされなかったにも関わらず、
2人の最も愛されるアルバム曲になった。

とは言え、それほど一般的に知られていないと言う異彩の作品である。by – M.N.

11位 ”Rocket Man” (‘Honky Chateau,’ 1972)

宇宙について歌うという70年代ロックの偉大な伝統を受け継ぐ「Rocket Man」は、
間違いなくファンのお気に入りだ。

エルトンのヴォーカルはクリアでシャープ、
曲の構成はピアノ、ベース、ドラムが中心で、
バーニーが書いた歌詞は、
現実との接触を失って絶望する宇宙飛行士の姿を完璧に描き出しているのだ。

この完璧な世界観が忘れ去られるには、長い長い時間がかかるだろう。by – S.D.

10位 ”The Bitch Is Back” (‘Caribou,’ 1974)

この爽快な曲で元気が出ないなら、
あなたはもう死んでいるのかもしれない。

エルトンがHot100でトップ10に入った
最もハードロックなシングルであることも忘れてはならないが、

“I don’t like those!/My God, what’s that?”
神様!てありゃ何だい? 俺はアレが大嫌い!
って、誰にでも毒を吐き捨てたくなる瞬間ってあるじゃない?
この曲は私たち全員が持つ心に潜む、
「そんな生意気なガキ」の部分を代弁しているようでもある点も見逃せない。

1974年秋、エルトンが「ビッチ」という汚い言葉を何十回も吐き捨てるこの曲が
全米ほとんどすべてのポップ・ラジオ局で
ヘビー・ローテーションされたのは、
エルトンのスター・パワーを示すものであった。by – P.G.

9位 ”Take Me to the Pilot” (‘Elton John,’ 1970)

エルトンの2枚目のアルバム「ELTON JOHN」(アメリカで発売された最初のLP)に収録されている「Take Me to the Pilot」は、トーピンの歌詞の中でも特に不可解な作品だ。

「Like a coin in your mint / I am dented and I’m spent with high treason」

「 造幣局のコインのようで、私は叩かれ、大罪で裁かれています。」
(What’s- えっ!?何のこと?)
という歌詞があり、エルトン自身もその意味がよくわからないと語っている。

しかし、バンド全員の力強い演奏と、
紛れもなく盛り上がるコーラスによって、
この曲はパワフルに歌い上げられる。

ラグタイム・ピアノ、ゴスペル・バック・ボーカル、
ハードなパーカッションが特徴的なこの曲は、
エルトンのライブの定番曲となったのもうなずける。by – J.L.

8位 ”Philadelphia Freedom” (Non-Album Single, 1975)

ジョンの親友であるテニス界の大スター、ビリー・ジーン・キングが
所属するテニスチーム「フィラデルフィア・フリーダムズ」に依頼されて書いた。

ほぼ同名の本作は、
歌詞的にも音楽的にも「兄弟愛の街」へのオマージュを込めたものだ。

新鮮なテニスボールのように弾むジョンの勝利のメロディーは、
プロデューサー兼ソングライターの
ギャンブル&ハフとトム・ベル(後者は後に一緒にレコーディングする)が開拓した、
フィリーサウンドへのオマージュでもある。
エルトンは当時フィリーサウンドをこよなく愛していた。

歌詞はテニスに対して言及することはなく、
代わりに どこまで歩き回っていても立ち上がる”転がる石 “のことを語り、
“このフィラデルフィアの自由 “に生き、呼吸していることを実感させる。

70年代半ばにジョンが発表したほとんどの曲と同様、
この曲もビルボード・ホット100で1位を獲得し、
フィリーのヒットメーカー、MFSBによる正当なカヴァーも獲得した。by – M.N.

7位 ”Bennie and the Jets” (‘Goodbye Yellow Brick Road,’ 1973)

この曲は、エルトン不在の間に母国を支配した
70年代の若者向けロックシーンであるグラムロックのパロディのようなもので、

“killing the fatted calf,”
“plugging into the faithless” and “electric boots and mohair suits,”
「肥った牛を殺せ」
「不誠実に突っ込め」
「電気ブーツとモヘアスーツ」など
まるでT・レックスのマーク・ボランが
デヴィッド・ボウイのジギースターダスト風の物語に
挑んでるかのように不明瞭でくだらない歌詞が並んでいます。

エルトンとバーニーは結局のところ、
固定観念に縛られすぎていて、グラム・ロックにはなじめなかったのかもしれない。

しかし、彼らはこの1曲のために、
着ぐるみを着て、成り切ることをとても楽しんでおり、
その伝染するような喜びは、
スタジオでの演奏を迎える偽のライブ・ノイズによってさらに増した。

もちろん、実際の観客にもこの曲は受け入れられ、
この曲はHot 100のトップを飾っただけでなく、
ビルボードのHot R&Bソングスで15位を記録した。
これは彼にとって初めてのチャート入りであった。by – A.U.

6位 ”I’m Still Standing” (‘Too Low For Zero,’ 1983)

70年代のヒット曲のような支持は得られないかもしれないが、
「I’m Still Standing」はエルトン・ジョンのキャリアにとって、
他のヒット曲と同じくらい重要なものだ。

70年代が不安定な終わりを迎え、
80年代を飛躍させるための試みがいくつかあった後、
エルトン・ジョンというアーティストが
他の多くのくだらない70年代の遺物と同じように忘れ去られない為に
正式に宣戦復帰するための作品が必要だった。

驚くことに、彼の放つ「I’m Still Standing」と言うフレーズは
その後の彼自身の自己実現的な予言であったことを明らかにしていく事になる。

エルトンの持つモータウンの反骨精神、
ノーザンソウルのエネルギー、
そして80年代でも浸透させるポップスの鋭さは、
MTVのドアを蹴破ったのだ!

世界を旅しる破天荒なエルトンを露出させた
ラッセル・マルケイのミュージック・ビデオの演出も手伝って、
彼はホット100で12位に入った。

そのPVは当時世界を席巻していたデュラン・デュランと対等に渡り合えることを証明した。
(この頃は実際エルトンとデュラン・デュランはいい勝負をしていたと思うが、結構すぐにデュランデュランのオリジナルメンバーは空中分解し、自然消滅することになるが、、。)

ジョン/トーピンが合作した曲の中でも
最も力強く生き延びる宣言的作品が
40年経った今でも輝きを放っているのは何ら不思議ではない。by – A.U.

1 2 3 4 5 6 7 8