1985年8月13日 釣りと瑪瑙拾い
船長の家は宿泊者を楽しませることに本当に懸命な宿だ。
この日も朝から釣り、瑪瑙拾いのイベントがあった。
昨日行かなかった人を優先に参加者を募ったが、早朝は眠たいのと早く出発したい人が多いせいか参加者は少なかった。
釣りは昨日と同じで手釣り。魚を触りたくない女性もいて、見ているだけの人もいた。
朝はよく釣れるかもと期待するが、カジカばかり5匹釣れただけだった。
見てるだけの女性はその後の瑪瑙拾いが目的だ。
オホーツク海まで船を走らせ、浜へ降り立つ。
1983年のソ連による大韓航空機撃墜事件で事故機の残骸や遺体が流れ着いたと説明された。
昨夜聞いたジャンボ不明のニュースと重なった。
そんな悲しい記憶ある浜だが、探すと赤い瑪瑙が目つかるという。スタッフが大きな赤い瑪瑙を見せると、釣りは見学していただけの女性がうわぁーと声を上げた。制限時間を告げられ瑪瑙探しが始まった。僕も折角なので探してみる。
見本に見せてもらった瑪瑙ほどではないが、2つ瑪瑙らしき石を拾った。スタッフに見せると瑪瑙だという。記念にポケットに入れた。
宿に帰るととにかく朝食のメニューが気になった。早朝から相当動き回ったので腹が空いてきた。朝食は熱々の三平汁とご飯。三平汁には野菜と本当はダメだと言って釣り上げた鮭が入っていた。密猟にあたるらしい鮭は釣りに参加した者だけに入っていた。
鮭から禁断の香りが漂う。湯気の中、微かに “小さな影” が揺らめいた気がした。
——密猟小人だ!密猟小人が湯気に紛れて鼻腔を刺激する。
僕は取り憑かれるように鮭に喰らいついた。
「美味い!」禁断だからこそ感じる旨さだ。
「クックック……お前も密猟者の一員だ…!」
ヤバいものを喰ってしまったのか?
僕は罪悪感というスパイスの効き目にやられてしまった。
名物ゼロヨン見送り
午前8時20分、船長の家出発。朝から充実した時間を過ごし、感覚的にはもうお昼といったように感じる。見送りは「名物ゼロヨン見送り」全員が一斉に並んで走り去るという。
ほとんどがバイクの人なので僕には関係ないと思っていたが、スタッフが声を掛けてきた。「君はこんな自転車だからハンデとしてあのポールからスタートしてね。」と指差す。
50メートルほど前方に確かにポールがある。
その手前の25メートル付近にはロードレースタイプの自転車が数台並んでいた。
しかし半ば強制的に指示され、僕はポールを目指した。
何なんだ!これは!僕は何も競争したいわけではない!
緊張感が高まる。スタッフは大きなフラッグを掲げ、
「それでは行きますよー!」と叫ぶ。
「ブオン!ブオン!」とまるで本物のレースのようにエンジン音が響く。
ロードレーサー達もペダルを踏みこむ体勢を取る。
「ピーッ!」
笛が吹かれフラッグが振り下ろされた。
「ドドドドドッ!爆音の洪水だ!!」
背後からまず、ロードレース自転車が迫り来る。
僕は彼らに抜かれてからようやく走り始める。
次に迫りくるバイク軍団!まるで獲物を狙う肉食獣だ!!
僕は怖くなってチャリチャリ走る。前を走る僕はバイクたちの格好の目標物のようになり、左右をビュンビュン通り過ぎていく。
なんなんだこれは! 俺はニンジンか〜っ!
バイクの一団は爆音を轟かせ通り過ぎて行った。
僕は馬鹿馬鹿しくなってゆっくり走る。まだ100メートルも進んでいない。
しばらく遅れてスーパーカブがやって来た。
スーパーカブは爆音の余韻をかき消すように僕の隣を静かに並走した。
スーパーカブはこんな競争には加わっていないといった感じでゆっくり走っている。
そうして僕の方を向いて言った。
「君がオバチャリで大阪から走って来た理由が分かった気がしたよ!」
「…..んっ!?」
「君の旅は競争じゃない。」
僕は、少し戸惑いながら彼の横顔を見た。
「地に足がついてて、自分のペースで走ってるんだ!」
僕は思わず笑みがこぼれた。
「……俺らの旅は競争じゃない」
そう言うと、彼はゆっくり加速した。
「じゃぁな!」
僕は、去り行く彼の背中をしばらく見つめていた——。
網走
30分ほど走ると能取湖に出た。国道238号線は能取湖を半周するコース。秋になるとサンゴ草が真っ赤になって大人気のドライブコースらしい。真っ赤なサンゴ草は見られなかったがそれでも最高の景色だ。左手の能取湖から次第に離れると今度は正面に網走湖が見えてきた。
11時、国鉄網走駅到着。網走の地名は町を流れる網走川の河口の先に見える帽子岩をアイヌ語でチパ・シリが訛って語源になったらしい。その特徴的な岩島は網走港から500メートルなのですぐ近くに見えた。
網走といえば真っ先に思い浮かぶのが刑務所。初めて訪れた僕にとってまるで街全体が、囚人たちの気配を閉じ込めたまま静かに息をしているように思えた。
所々に網走刑務所にまつわる案内看板。昔の門や施設、慰霊碑、そして監獄博物館の所在地を教えてくれる。どれも観光施設なのに、どこか寒気を感じる。
中でも一番人気の施設は網走監獄を再現した博物館。北海道開拓の為に全国から重い罪の受刑者が集められた監獄を再現した見せ物施設だ。受刑者の扱いは通常の刑務所とは違い、過酷を極めたと聞く。特に冬は毎日のように死人が出て、使い捨てのような扱いだったと書籍で読んだことがある。
土産物屋には”囚人作”の小物が並ぶ。彼らが今もここで生きている証のように。
明るく振る舞っている雰囲気に見えたが、内部はところどころ撮影禁止の張り紙が見られ、門以外カメラを向けることが憚られた。
網走から進路を南にとった。網走湖の南端に女満別という小さな温泉地に着いた。
旅館も2軒ほどしかないひっそりとした穴場のような良い町だ。国鉄女満別駅から網走湖も温泉もすぐ。のんびりするにはもってこいだ。
少し休憩して走り出すと、
「ドシャッ!!!」(突然の衝撃音!)
「えっ?何の音?」
「ぐわっ!なんか変だ!ペダルが重い……」
振り返ると——
「荷物、大☆崩☆壊!!!!!」
僕は自転車を停め散乱した荷物を集める。
どうやら固定した荷台の針金が切れていた。
時々修繕していたが、弱っていて一気に針金が切れてしまったようだ。すでに針金は使い果たしてしまっていた。荷物を縛っていたゴムも随分くたびれてる。
何処かで針金を買わなくてはならない。とりあえず残っている針金を繋げて板を固定する。応急処置なので持たない事は一目瞭然。
女満別に到着したが、針金が売ってそうな店は見当たらなかった。
美幌まで行くしかないようだ。美幌まで約10キロ、後ろの荷物を手で押さえながらゆっくり走った。荷物を押さえてだるくなる手を左右交互に替えながら45分掛けて美幌駅到着。
駅前を歩いて針金を探す。
あった!
北海道ではちょっとした物を買うのも大変だ。
無事針金を購入し、荷台を改めて固定する。大阪から18日目で荷台崩壊。
まだ、同じくらい走る予定だ。そう考えると出発前と同じ固定の仕方だとまた切れる心配がある。
僕は潤沢に針金を使って強く固定した。ついでに後ろタイヤのゴムの様子を見る。抜海の砂利道でのダメージが大きかったようだ。溝はなくツルツルになっている。タイヤを撫でながら持ってくれと願う。
コーラ恵比寿降臨
美幌の町から243号線に入り屈斜路湖へと向かう。すぐ弁当屋さんが目に入った。隣にはそこで食べろと言わんばかりのボロボロのベンチがある。ちょうど良い。僕は弁当屋でカツ丼を注文し、そのボロボロのベンチで座って食べることにした。
弁当屋の隣には八百屋があった。弁当を食べる僕をガン見する八百屋のオッサン。
八百屋の店主は恰幅がよくえべっさんといった雰囲気だ。
「いや、何で?笑いすぎやろ!」
「何か言いたげだ……と思った瞬間——」
『どっから来たんだ!?』(爆音)
そこまで大きな声を出さなくても十分聞こえるような壊れたボリューム音だ。
僕はその迫力に負けないくらい大きな声で
「大阪です!」
「……おぉ、気に入った!」
八百屋のオッサンは店に戻った。
何なんだよ!あのオッサン?
オッサンはコカコーラを片手に戻ってきて、
「持ってけ泥棒!」
と僕に差し出した。
「ありがとうございます!」とまた僕は大きな声で返した。
八百屋のオッサンというよりコーラ恵比寿といった感じだ。
彼はコーラを貰った僕以上の笑顔だったと思う。
美幌峠
今日の最大の難所美幌峠525メートル。この峠は美幌側から上るのは自転車にはとても苦しいと聞いていた。理由は美幌から美幌峠までの27キロがほぼダラダラとした上り坂だというのだ。峠道はできれば上りは急で短い距離、反対に下り坂はなだらかで長くが自転車にとっては理想。この美幌峠を美幌側から走るのはその正反対だというのだ。それは中山峠でも同じだと思った。しかも中山峠は800メートル以上、箱根と並ぶ難所。流石にそれよりは楽だろうと考えた。だが途中で会ったサイクリストの何人かは美幌峠の方がキツイと言った。
中山峠は約20キロ、標高260メートルから820メートルで高低差560メートル。美幌峠は27キロ、標高18メートルから500メートルで高低差480メートル。なるほど高低差は80メートルの差異。対して距離は約1.4倍。美幌峠が中山峠よりキツイと言われる理由だ。
27キロ登って弟子屈側に降りる下り坂は10キロ足らず。苦しみが長く、楽が短い美幌側から目指す美幌峠は典型的な嫌われる峠デザインなのだ。
そうかそれならそれで私は美幌峠まで一度も自転車を降りずに登り切ろう。
僕は美幌峠のチャレンジャーとして自分を奮い立たせた。
くだらない事だけど、自転車で走るということはそういった勝手な目標をたくさん決めて挑戦し、それらをクリアする喜びの連続で成り立っている。そうでなければこんな単純で時には苦しく飽きてしまう事を続けてなんてられないのだ。
僕は「無降車美幌峠制覇」を掲げて走り出した。
しかし、走り出すと本当にダラダラ坂だ。
目の前に広がるのは、”無限に続くかのような” 直線の登り坂。
逃げ場なし。左右を見ても、ただただ緑の壁。”変化ゼロ” の風景。
「……俺は、ずっと同じ場所を走ってるんじゃないか?」
「本当に進んでいるのか?」
まるで回し車を回し続けるハムスターにでもなった気分だ。
あらかじめ地図でイメージしていた。
長い直線道路の後、2度のヘアピンカーブを登り切れば美幌峠到達。クライマックスはとにかくヘアピンカーブだ。ほとんどストレートだった峠道の前方に大きく曲がる進路が見える。僕は声を上げた。
「おー、もうすぐだ!」
あと2キロほど、もう少しで27キロ無降車で美幌峠を登りきれる。
力を振り絞りペダルを立って踏んだ。まっすぐなコースの時に比べるとヘアピンカーブは急に勾配がキツくなった。それでも1つ目のヘアピンは何とか走り切った。
「よしっ、もう1つ!」
僕は全体重をかけてペダルを踏んだ。
最後のヘアピンカーブの勾配は更にきつくなった。
僕の自転車は急激に速度を無くし、バランスを保つことも困難になってきた。
27キロのうち、約26キロと少しを一度も降りずに走ってきた。
「ガクンッ」
ペダルに全体重を掛けても動かない。
努力虚しく、自転車の速度はついにゼロになった。
僕はバランスを崩して自転車ごと倒れてしまった。
後ろを走っていたらしい車が追い越して停車した。
左右のドアから夫婦が出てきた。
「大丈夫?」
僕は人が見てたと気付かなかった。
心配かけてはいけないと思い立ち上がって
「大丈夫です。ありがとうございます。」と笑顔で言った。
夫婦は安堵した顔で車に乗り込み走り去った。
しかし、僕はというと実は吐きそうで、頭もガンガンと痛かった。
恐らく酸欠と思われた。
時々駅伝で襷を渡した後に倒れ込むランナーはもしかするとこのような状態なのかもしれない。
とにかく苦しい。
ここまで追い込むのはいけないな。反省した。
今日で終わりじゃないんだぞ。
僕は自転車をもう一度漕ぎ出し、ヘアピンカーブを登った。美幌峠到着。
屈斜路湖の味
峠の茶屋には数台の観光バスが停まっており、多くの観光客が見られた。峠の茶屋前には大きな声を張り上げ客引きをする出店のようなものもあった。
僕はまだ頭痛に耐えながら、出店で氷水に浸かったポカリスエットを買った。
喉は渇いている。しかし、えづく感覚もあってすぐに飲むと吐きそうだ。
人でごった返した茶屋が疎ましく、小高い丘の石の上に座り込んだ。
「スーッ」と心地良い風が全身を撫でていく。
美幌峠の景観は素晴らしく、時々映画やテレビドラマのロケが行われると言う。
「君の名は」という伝説的恋愛映画の聖地でもあるらしい事が土産物屋に謳われていた。
眼下に見える屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖。そして、摩周湖や知床までも見渡せる。
素晴らしい景色を眺めながら風に吹かれていると、ようやくポカリスエットが喉を通るまでに回復した。この素晴らしき景色をフィルムに収めようとカメラを手に戻った。カメラを構えてフレーミングする。
しかしどう撮っても僕のカメラでは屈斜路湖の全景が映らないのだ。
僕のカメラは単一焦点のレンズで35ミリの画角。Rollei35という可愛いカメラだ。
手軽に撮るには良いが、本格的に景色を撮るには多少画角の都合が悪い。
仕方がないので大体見当をつけて3回に分けて撮影した。
後でプリントした写真を横に繋げるのだ。
茶屋に戻るとさっきは気づかなかったが、アイヌ人らしき人が数人いて、写真のモデルになるという商売をしていた。面白そうだと近づくと500円と書かれていて近づくのをやめた。今の僕には500円は払えない。しかし標高が高いとはいえ、立派なアイヌの衣装を着ている。しかも重ね着だ。暑い中大変な事だろう。
美幌峠を走り出すとあっという間に屈斜路湖畔にやってきた。
2時間近くかかった上り坂、下りるのは10分程度と呆気なかった。湖畔では多くの観光客が見られた。砂湯というところは屈斜路湖畔で砂を掘ると温泉が出ると言う。そこはキャンプ場も隣接されていて、多くの観光客がいた。
陽が傾き湖面にキラキラ光る陽光が美しく、僕は砂湯で自転車を停めて休憩した。
キャンプ場にいたひと塊りの大学生風の男が僕に近寄ってきた。
「君、コーヒー飲むかい?」
「はい」と僕は答え、ひと塊りの集団に入っていった。
峠を下って風に当たった身体が温かい飲み物を欲しがっていた。笑顔でコーヒーを手渡した男が、僕がコーヒーを飲む表情を窺っている。
正直16歳の僕はコーヒーという飲み物がまだ馴染みがなく、味の質も香りもよくわからない。ただ、8月の夕暮れの北海道は明らかに冷たい飲み物ではなく、温かい飲み物が合っていた。僕は小さく頷いた。すると学生風の男が言った。
「屈斜路湖の水で淹れたコーヒーだぞ!」
「屈斜路湖の味がするだろう!」
「……(マジかよ)」
「はい!風味が間違いなく屈斜路湖です。」僕も折角なのでノリで言った。
「だろ? これが”天然の味”よ!」
いや、単に湖の水やん…、やけど面白いことをするんだな。
野村川湯ユースホステル
午後6時、国鉄川湯駅に到着した。周囲には乗馬センターが沢山あった。面白そうだなと見て回った。もし安ければ明日乗ってみたいと思ったが、何処も4000円程度とユースの宿泊費の倍近い値段に諦めた。
午後6時半今日の宿「野村川湯ユースホステル」到着。
寄り道していたので夕飯の時間に遅れてしまった。すでにほとんどの人が食べ終わっており、僕は一人で食事をした。
夕飯に遅れると、それ以降全部の行動がみんなとズレてしまう。旅先の情報を仕入れるきっかけを失うので勿体無い。乗馬センター巡りは余計だったと反省。
風呂に向かうととにかく満員。洗濯機も空いていない。仕方がないのでテレビを見る。
昨日消息を絶った日航ジャンボの墜落ニュース一色だ。これは大変だと思った。乗客には歌手の坂本九さんも搭乗していたと言う。僕は坂本九のファンでレコードもカセットも沢山持っていた。原形を留めない墜落現場の映像に絶望感しかなかった。しかし、4人の生存者がいたという情報と実際に運び出される様子に息を呑んだ。
ようやく風呂がすき出したようだ。
僕が入浴する頃は一気に人が少なくなって、会社員と二人だけだった。
会社員は聞いてもないのに延々と話した。長い連休を取って北海道旅行に来ていたらしい。
礼文の桃岩ユースで帰らせて貰えず連泊地獄の被害に遭ったという。
桃岩ユースと言うとおかしいユースと教えられた所だ。
酒を飲まされたり荷物を隠されたりして帰れないようにされたそうだが、笑って話していたので満更でも無さそうだ。明日の飛行機で帰るとのことだったが、本当なら電車で帰る予定だったとの事。しかし昨日の飛行機墜落事故で飛行機のキャンセルが続出して空きが出たと言う。
「そんな連続で落ちるはずないのにね。だけどお陰で助かったよ。ほんと、ラッキーラッキー!」と会社員。この人はモラルが掛けているなと思いながら聴いていた。
風呂から上がるとユース名物のミーティングが始まるところだった。ここのミーティングは歌ったりせず、観光情報などを丁寧に教えてくれるスタイルだった。かつては凄かったらしいが、あまりに凄いと本来の純粋な旅行者が寄り付かなくなる。つまり常連ばかりのキチガイユース化するからだという。
なるほど、そのせいで「紋別流氷の宿」もスタイルが変わったと聞いた。
先程聞いた桃岩ユースといい、北海道のユースも変わりつつあるのだなと感じた。
正統派・・・イクサンダー大沼、小平望洋台の純粋な輪になって歌うスタイル
その後度を越す・・・桃岩ユース、鷲泊ユースなど
ちょっと考える・・・野村川湯ユース
収束する・・・紋別流氷の宿
このような感じで起承転結するのだろう。
周辺の観光案内として「屈斜路湖」「阿寒湖」「摩周湖」がスライドで紹介された。
屈斜路湖は最大の湖で言うまでもなく周辺のホテルや施設など一番。
美しさと神秘さでは摩周湖。摩周湖の水の透明度はバイカル湖に次いで世界で2番目という。つまり日本で一番の透明度を誇る。
屈斜路湖と阿寒湖は簡単に湖面に触れられるが摩周湖は降りていくのも大変だという。
通常摩周湖は展望台から見る。だけど、「霧の摩周湖」の言葉通り、湖面を綺麗に見ることができるのは運次第。折角来たんだから時間がある人は摩周湖畔に降りていく価値はあると勧められた。
ただ、その神秘の摩周湖の湖面を見た女性は結婚できない「摩周湖伝説」もあるそうだ。
一部の若い女性客から悲鳴のような、爆笑のような声が聞こえた。
また、阿寒湖はとにかく汚染されているという。そもそも有名な阿寒湖のマリモは水質が汚いから出来るのだと言うので驚いた。
この3つの湖は誰でも知っているだろうがしかし知る人ぞ知る秘密の湖があるという。
それは「オンネトー」と言う。
この湖は阿寒湖よりも遠く、なかなか行きにくい場所らしい。
神秘の湖で時間と見る場所によって七色に変化するという湖面を写真で紹介されるといっぺんに行きたくなった。ツアーなどもあると聞いたが1日がかりで5000円。
明日、釧路で都市銀行に行かなければならない僕には絶望的な金額だ。
キタキツネの伝言
観光案内が終わるとあるキタキツネの話になった。
1978年「キタキツネ物語」という映画が公開され大ヒット。
キタキツネは北海道の大人気アイドルとなった。キタキツネのグッズは売られるし、テレビドラマ「北の国から」でも登場。
キタキツネを餌付けして客寄せに使うお土産物屋も出てきた。
そんな中、野村川湯でもお客さんがあげた餌で懐いてしまったキタキツネがいたらしい。
その頃の写真を交えながら話は続けられた。
3年前の昭和57年、ユースの目の前の道路が国道391号線になり整備された。
すると走りやすくなった道路に、車の往来が格段に増えたという。
懐いていたキタキツネは出産し、子狐の為に頻繁に餌をもらうようになっていた。
むしろねだると言ったほうが良かったかもしれない程、餌を自分で取らなくなっていたそうだ。
可愛い小狐と親子で訪れる野村川湯ユースはキタキツネがやって来るユースと言うことで、評判だったと言う。
「可愛い小狐の写真が映っている。人懐っこく、無邪気な顔をしていた。」
しかし、ある時母キツネが車に撥ねられ死んでしまったと言う。
……次のスライドに”車に轢かれた母狐”が写っていた。
痛々しかった。
一瞬、息が止まった。
次の写真は、痩せこけた子狐だった。
“餌をもらえず、衰弱して死んだ”と説明が入る。胸が痛んだ。
これが、”優しさ”の結末?
こうして野村川湯ユースを盛り上げてくれた親子のキタキツネは全滅してしまった。
可愛いいキタキツネのスライド、そして遺骸のスライド、見せる必要は無いかもしれない。しかし、餌付けしてしまって、またそれで評判になって客引きになって一瞬でも喜んでいた自分たちの愚かさを戒めるように野村川湯のキタキツネ物語は終わった。
みんな”キタキツネのため”との大義名分で、結局”自分の楽しみ”に餌をやってたんじゃないか?
「じゃあ、本当の優しさって何なんだろう?」
そう問われている気がした。
「……今の俺には、まだ答えが出せない。」
優しさなんて、全ては自分の好都合。そしてそれはエゴ。
二日前に泊まった「紋別流氷の宿」が思い出された。
“みんなでバカ騒ぎ”も旅の楽しさだった。
でも今は、”個人の旅”を求める人が増えた。
今がその分岐点。
“誰かと旅を共有する”時代から、”それぞれが自由に旅をする”時代へ。
それは——旅の進化? それとも、”寂しさ”なのか?
変わりつつあるユースホステル。
変わりつつある北海道の旅。
じゃあ——今の僕は、この度をどう捉えてる?
いつか”大人になった時”、僕は何を思い出すんだろう。
反省会 16歳の僕と56歳の俺
56歳の俺「母キツネの写真、衝撃やった……」
16歳の僕「僕たちの優しさ”って、結局エゴなんかな?」
56歳の俺「俺は年重ねてそう思てる。」
16歳の僕「それって、寂しすぎへんか?」
56歳の俺「そう思うやろ? でもな、人は”自分の優しさ”を信じたがるもんや。俺もそうやった。」
16歳の僕「信じたらアカンの?」
56歳の俺「アカンとは言わん。でも”誰かのため”が、”自分の満足”になってへんか?って、ちょっと考えるだけで、優しさの形は変わる。」
16歳の僕「……難しいこと言うなぁ」
56歳の俺:「せやな。でも、考え続けることが”本当の優しさ”やと思うで。」
16歳の僕:「なんか……答え出ぇへん話やな」
56歳の俺:「たぶん一生答えは出んのやろな。でも、それでええんやと思う。」
- “本当の優しさ”だと感じるものは何ですか?
- 旅のスタイルあなたは馬鹿騒ぎ? それとも静かな内省?
コメントでぜひ教えてください!😊
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