1985年8月14日 朝冷え
朝晩めっきり冷え込むようになった。
昨晩、一人につき布団が3枚用意されていて、流石に大袈裟ではと思っていた。
実際、寝入りばな2枚で寝ていて途中寒さで目を覚まししっかり3枚でちょうど良かった。
寒がりな人は4枚目、もしくは毛布が必要だろう。
北海道の人も冬の寒さより夏の寒さの方が気を付けないといけないと言っていた。
野村川湯ユースには「輪太郎」の愛称で親しまれているヘルパーがいた。
泊まった宿で必ず書いてもらう記録ノートを輪太郎さんに返してもらった。
通常、住所と宿の名前、日付が書かれている程度。
それが僕にとっては大事な思い出。
今回、輪太郎さんが書いてくれたのは洗練されたイラスト。
そして摩周湖の写真が貼られていた。
摩周湖畔に食いちぎられた牛の頭、湖面は静かな摩周湖が写っている何とも神秘的な写真。サイズもキャビネ。
牛の頭はギョッとしそうだが、隣の屈斜路湖に「クッシー」と言う恐竜がいるかも知れないと話題になっている。
これはスコットランドのネス湖のネッシーに因んだ観光客集めの話題作りであった。
で、ネッシー、クッシーに続いて摩周湖にも何かいるのではとまことしやかに噂されていた。なので、食いちぎられた牛の頭と摩周湖というのは非常に熱い写真なのだ。
そんな貴重な写真を貼ってくださった事に僕は
「ありがとうございます!」と丁寧に頭を下げた。
「日和山ユース」
と殴り書きで書いた日和山般若のダイイングメッセージとは大違いだ。
そして、別れ際に輪太郎さんは親切にアドバイスしてくれた。
僕が今から目指す摩周湖展望台は美幌峠よりも標高660メートルと高い位置にある。
屈斜路湖と同じカルデラ湖で、摩周湖はこの展望台に上がらないと見えないのだ。
通常見学だけならバスか車で向かう。
僕もバスツアーがあると紹介されたが自転車で来ている以上、自転車で行く覚悟だ。
それを告げると輪太郎さんは一番手前の摩周湖第三展望台まで約10キロ弱。
一気に駆け上がるキツイ坂道だけど、休まず一気に登った方が楽だよとの事。
なるほど、屈斜路湖の美幌峠はだらだらの苦しい峠だったが今度は逆なのだ。
摩周湖へ
午前8時10分、野村川湯ユース発。
両サイド高い林に囲まれた道道52号線を行く。
この辺りはいかにも北海道という景色で多くのパンフレットなどでも紹介される場所。
約2キロの直線道路沿いはミズナラが生い茂り貴重な原生林。
その直線道路の後には、急なS字カーブの連続だ。
摩周湖展望台への坂道はほぼここから始まった。
とても自転車で登れる勾配では無い急坂。
押したり乗ったりしながら休まず進んだ。
9時半過ぎ摩周湖台さん展望台到着。
一気に登ったおかげでダメージは少ない。
自転車を停め、展望台への階段を駆け上がった
摩周湖は、まるで神の気まぐれのように霧のベールに包まれていた。
湖の輪郭すら掴ませてくれない。
僕は2キロ先の第一展望台を目指した。少し角度が変わると見えるかも知れない。
午前10時、第一展望台到着。
第一展望台に駆け上がる。
モヤっとしていた湖の輪郭が次第にハッキリしてきた。
霧のカーテンが、静かに裂けていく。
一筋の光が湖面を照らすたび、青い水面が少しずつ姿を現した。
「……うわぁ」
まるで、隠されていた宝石が、そっとベールを脱いだような光景だった。
摩周湖中央のカムイシュ島もハッキリ見える。綺麗だ。
写真を撮って満足していると、お腹が空いてきた。
第一展望台の食堂に入る。今日釧路でお金を下ろさないとマズイ状況。
札幌で下ろした3万円は既に1000円。
乏しい現金と食堂のメニューを見比べる。
かけそば350円。高い!
財布の中の千円札を睨みつける。
ここで350円を使うのは、正しい選択なのか?
僕の地元の千里中央のセルシー地下にある立ち食いそば「たくま」なら170円。
350円はほぼ倍だ。高い!
ここで350円を使ったら、釧路に着くまで
残金650円!
でも、この先温かいそばにありつける保証なんか、どこにもない。
「……よし、もう覚悟決めた!」
まるで大勝負に挑むように、僕はそばを注文した。
出て来た熱々のそば。
香り高い出汁が強烈に鼻腔を刺激する。一口啜る
「ズズッ……!! 」
んっ……!? この出汁の奥深さ……
まさか、ここにもぬめり翁が!?
「ウマウマダシダシ〜!」
北海道の奥地で、まさかの再会。
僕はそばを啜りながら、静かにガッツポーズをした。
優しいつゆが胃袋に染み渡る。失われたミネラルが昆布出汁で補給されていくようだ。
最後の一滴までつゆを飲み干した。
食べ終わってもう一度展望台に上がる。
すると先ほどより更に晴れていた。また写真を撮る。
今日は一日このまま摩周湖は出血大サービス。
「摩周湖伝説」で嫁に行けない人続出!と思われたが、
それ以降、霧が立ち込めてあっという間に湖面は隠れた。
湖面が陽光に照らされ水蒸気が出たのだろうか?
とにかく神秘の摩周湖に偽りはないようだ。
11時半、摩周湖第一展望台を発つ。
今日は80キロ先の釧路に絶対到着しなければならない。
しかも銀行のATMが閉まる午後6時までに。
チョコレート妖精降臨
摩周湖展望台から道道52号線を僕は下った。
途中、広がる牧場。馬がのんびり草を食んでいる。
「……お前ら、そんなに急ぐ必要ないもんな」
さらに牛たちもいる。
馬以上にのんびり、まるで “動く気力すら失った哲学者” のように、ただじっとして草をはんでいる。
「おい、ちょっとは動けよ」
牛「……それが何か?」(モグモグ)
呑気なもんだ。
釧路へ急ぐ僕とは、まるで正反対の世界に生きているようだった。
国鉄弟子屈駅着。もう腹が減ってきた。そばだけだもんな。
もし弁当屋があれば一番安いのり弁をと思ったが、残念ながら弁当屋はなかった。
腹が減った。
標茶町を走りシラルトロ沼、塘路湖を過ぎると右手に雄大な草原が見えた。
日本最大の湿原「釧路湿原」
僕はフィルムに収めようと自転車を停めた。
取りやすいようにと入れていたカメラが奥の隙間に入ってしまい取り出せない。
面倒だがゴムを解いて鞄に手を突っ込む。するとざらざらと砂の手触りがした。
僕はそれが気持ち悪く、一度カバンの砂を全部出す事にした。
着替えなど大きな荷物を出して、カバンを逆さにしてバタバタと振った。
すると細かな砂が舞い落ちるのと同時に紙に包まれたチョコレート2枚が中空に舞った。
ポトリ。
落ちたチョコを見た瞬間、頭の中でパチンとスイッチが入る。
霧が晴れるように、あの札幌の土産物屋の光景が蘇った——
「えーっと!21歳!」
「当たり〜!」
可愛すぎるチョコレート妖精と大学生との年齢当てクイズ。
……そうだ!あの大学生がくれたチョコや!!
ふと顔を上げると——
そこに チョコレート妖精 がいた。
「……あれ?」
柔らかな微笑み、艶やかな黒髪、そして白いワンピース。
妖精は僕の前にそっと舞い降り、手のひらに2枚のチョコを乗せると、ウインクした。
「お兄さん、甘いひとときを——」
次の瞬間、ふわりと風に乗って消えた。
(えっ……!?今の、現実? それとも……?)
目の前には、2枚のホワイトチョコが残っているだけだった。
僕にとってはまさに妖精の恵み。
2つのチョコレートをじんわりと味わいながら食べた。
釧路到着
4時釧路町から釧路市へ。
「あと2時間!」
時計を見て、ペダルを踏む足に自然と力が入る。
「間に合うのか? いや、間に合わさなアカン!」
ATMが閉まれば、今夜は 「無一文の野宿」 になる。
国道391号線は湿原を守るために遠く離れた進路になった。
対して国鉄は湿原沿いを走っている。
途中丹頂鶴の観察センターなどの看板が見られた。今の季節は関係ないなと通り過ぎた。
遠矢というところで国道は湿原沿いに戻った。釧路駅まで10キロ程度。
想像以上に釧路湿原は釧路市街地から思った以上に近い。
午後5時、釧路駅到着。まずは銀行に一直線。現金を手にするととにかくホッとした。
これで飯が食える。宿にも泊まれる。
昨日の川湯のような場所では夜は10度以下になる。
もう寝袋だけで寝るにはツライ気温だ。とにかく地面の冷たさが堪えるのだ。
現金を手にしたことでユースに向かう。
到着できるか分からなかったので予約はしていない。飛び込みだ。
空きがある事を願って向かった。
釧路ユースは駅から幣舞橋を渡った先にあるようだ。
釧路は漁業と石炭、製紙で栄える道東最大の都市。
幣舞橋から釧路の海が見える。
朝市とかあるのだろうか?あるなら明日是非行ってみよう。
潮の香りがする釧路は都市といっても札幌とは全く異なる雰囲気だ。
洗濯
釧路ユース到着。聞くと泊まれるが寝るのは食堂との事。
「弘前ユース」の悪夢が思い出される。
食堂組は就寝時間まで横になるスペースさえ確保できない。
しかもドタドタと人の出入りでうるさい。
しかし、朝晩の冷え込みを考えると、野宿よりはマシだと諦めた。
食堂に荷物を置いて風呂に向かう。風呂から出ると淡々と夕食を取った。
落ち着かない食堂で時間を潰すのが嫌で外に出る事にした。
そうだ洗濯をしよう。
釧路ユースには洗濯機がなかった。
近所の御用達しのコインランドリーをスタッフがテキパキと教えてくれた。
コインランドリーで洗濯を始めると30分の待ち時間ができた。
30分、そのまま待つのが嫌で、自転車に乗って釧路の街を走る事にした。
幣舞橋を渡って釧路駅へ向かう。
土産物屋に立ち寄ってもピンと来るものがない。
もし買うなら明日の市場で魚介類だろう。
そんな考えがあったので、土産物屋も2軒覗いただけで切り上げた。
幣舞橋に寄りかかり、街灯の光がゆらめく川面をぼんやりと見つめる。
「静かすぎるな……」
遠くで聞こえるのは、潮風と、時折通り過ぎる車のエンジン音だけ。
釧路は 「都会」 だけど、 「札幌とは違う、寂しさを抱えた都会」 だった。
自転車で走り回った直後の火照った身体には心地よい海風。
しかし10分もすると寒いくらいになってきた。
Tシャツ姿で出てきてしまったが、8月中旬の釧路の夜は長袖でないと寒かった。
体温が完全に奪われて少し震えるほどになった。
温かい布団で寝たい。しかしまだ7時過ぎ。
食堂で寝なければならない私はまだ3時間は三角座りで待たなければならないのだ。
それにしても寒い。帰ろう。宿に帰ってとりあえずこの寒さからは逃れよう。
僕は宿に向かって走り出した。
釧路ユースへの坂道を登りかけた瞬間——
「……あれ?」
「……あ”っっっ!!!!!」****(洗濯物!!!)
「やらかしたーーーっ!!!」
まるで 「Uターン禁止ゾーンでUターン」 するかのように、自転車ごと急旋回!
コインランドリーへ爆走!
「俺の洗濯物、無事か!?」
僕は急いでコインランドリーに戻った。
ポケットに詰め込んでいたビニール袋を広げ、濡れている洗濯物を袋に詰める。
下着以外にも一枚しかない長袖服とズボンも含まれているのでまぁまぁの量だ。
僕はサンタクロースのように背中に袋を抱えユースへと走った。
ユースに帰って洗濯物を干す。明日の朝市の為にも早く寝たい。
しかし、就寝は10時。食堂組が布団を敷いて横になるにはまだ2時間ある。
その時幸運が舞い降りた。
キャンセルが出て、部屋のベットが1つ空いたというのだ。
僕よりも先に到着している食堂組がそのベットにどうぞと声が掛る。
ただ、彼らはいずれも友人と来ており、友人を差し置いて自分だけベットという訳には行かないと断っていた。
そうして回り回って一人旅の僕にベットの権利が舞い降りた。
ありがたい。
僕はベットに潜り込むと一瞬で寝入った。
反省会 16歳の僕と56歳の俺
16歳の僕「今日一日も濃かったです。 摩周湖、チョコ妖精、釧路のATMと寒さ…」
56歳の俺「ほんまにな。摩周湖は”神秘”、妖精は”奇跡”、釧路は”現実”やったな……」
16歳の僕「チョコレート妖精の出現はほんまに助かった。」
56歳の俺「ウマウマ、ダシダシだけで過ごすのは流石にキツイわな」
16歳の僕「でも、現金ないのは改めて心細かった」
56歳の俺「次の引き出しも考えとかなあかん。」
16歳の僕「これが現実か….」
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