1985年7月28日 早朝、大津
守銭奴山姥の宿からの脱出計画は、予定より少し遅れてしまった。
ふと目を覚ますと、窓の外がうっすらと明るい。時計を見ると4時半。
蒸し暑さに耐えながらの夜を過ごし、身体はまだ火照っている。
タオルを水で濡らし、顔や首を拭うと、ひんやりとした感触が心地よかった。
「このまま、出発しよう」
そう思ったはずなのに、次の瞬間には意識が途切れていた。
次に目が覚めたのは5時半!
たった1時間の眠りだったが、まるで数時間寝たかのような感覚があった。
身体が軽い。脚の疲労も、幾分か回復しているようだった。
それでも、昨日のダメージは確実に残っていた。
京都での長時間の走行と、途中で何度も攣りそうになった脚。
筋肉はガチガチに固まり、このままでは漕ぎ出すことすら難しい。
「今日からは、ちゃんとストレッチをしよう」
自転車旅は、ただペダルを踏むだけではない。
身体のケアをしなければ、長距離は乗り切れない。
軽く屈伸をし、アキレス腱を伸ばす。
ふくらはぎをゆっくり揉みほぐし、深呼吸を繰り返す。
「よし、大丈夫だ」
午前6時、ついに出発。
琵琶湖へと続く道
大津駅を離れ、国道沿いに琵琶湖へと向かう。
しばらく進むと、なだらかな坂道が広がっていた。
一直線の下り坂。
朝の空気を切り裂くように、風を感じながら走る。
前日とはまるで違う、静かで清々しい道だった。
都会の喧騒から抜け出し、ようやく「旅が始まった」と実感する。
大阪から出発する旅は、まず都市部を抜けることが大変だ。
信号、車、人の流れ……すべてが自転車にとって障害になる。
それを抜けた今、ようやく「走ること」だけに集中できるようになった。
お腹が減っていることに気づき、近くのローソンに立ち寄る。
おにぎり3つ入りのパック(240円)を購入し、琵琶湖を眺めながら食べる。
静かな湖面、ゆるやかに吹く風。
「これだ。こういう旅がしたかったんだ」
昨夜の悪夢のような宿の記憶が、少しずつ薄れていくのを感じた。
ツーリング事故と旅の警告
琵琶湖沿いの道を進むにつれ、店の数が減っていく。
ポツポツと現れるのは釣具店くらいで、コンビニもほとんどない。
そんな中、ふと目に入ったのは、小さな商店の前にできた人だかりだった。
近づいてみると、バイクが転倒していた。
運転していた男は無傷だったが、後ろに乗っていた女性が顔を押さえて泣いている。
指の隙間から血が流れているのが見えた。
周囲にいたのは、14〜15人ほどのツーリング仲間たち。
全員が派手なツナギを着ていて、一目で「バイク乗りの集団」だと分かる。
女性もまた、赤・白・黒の色合いのツナギを着ていた。
夏休み、仲間たちと計画したツーリング。
きっと、何ヶ月も前から楽しみにしていたに違いない。
だが、事故は一瞬でそれを壊す。
「救急車、お願いします」
商店の店主が電話をしているのが聞こえた。
しかし、その声にはどこかためらいがあった。
心の中で「関わりたくない」と思っているのが伝わってくる。
僕は、しばらくその光景を眺めていた。
仲間がいるはずの彼らが、どうすればいいのか分からず立ち尽くしている。
楽しそうな旅の雰囲気は、一瞬で消え去っていた。
「気をつけろ」
誰かにそう言われた気がした。
事故は、遠い世界の話ではない。
自分もまた、たった一つのミスで、同じように傷を負う可能性がある。
冷えていないアクエリアスと優しい商店主
事故現場を眺めていて、喉が渇いていることに気づいた。
朝、宿で入れてきた水筒の水はすでに空。
ちょうど、救急車を呼んでいた商店の隣に自動販売機があったので、アクエリアスを買うことにした。
ボタンを押す。缶が落ちる音。
「……あれ?」
取り出し口に手を伸ばし、缶を握る。
まったく冷たくない。
(そんなことある!?)
思わず店の中に入り、店主に声をかけた。
「おっちゃん、これ冷えてへんで!」
「あぁ、さっき入れたばかりやからね」
申し訳なさそうに笑う店主。
そして、冷えたアクエリアスと交換してくれた。
その様子を見て、僕は思い切って頼んでみた。
「もし、水があったら、分けてもらえませんか?」
「あるよ」
店主は僕の水筒を受け取り、たっぷりと水を入れてくれた。
たったそれだけのことだったが、すごく嬉しかった。
昨日、旅のスタートでいきなり「迷子生み妖怪」に出会い、
宿では「守銭奴山姥」に散々な目に遭ったせいか、余計に人の優しさが心に染みた。
「ありがとうございました!」
冷たいアクエリアスで喉を潤し、再び旅路へ。
北へ続く道、そして峠の始まり
雄琴、堅田を経て、午前9時半、今津に到着。
ここから敦賀へ向かう道は、地図にもまだ載っていない新しい道だったが、国道161号線は一本道なので迷うことはない。
ただ、敦賀までにいくつか峠を越える必要があった。
最初の100m級の峠を登り、ひと息つく。
「もしかして、敦賀までの峠ってこれで終わり?」
そう思って走り出した直後、目の前に広がる延々と続く上り坂。
「……違う。これが本番か」
マキノ追坂峠を越え、「やった、もう終わりだ」と油断した瞬間、
本格的な北陸への峠道が目の前に現れた。
(次ページ:「アップダウンデビルとの格闘」へ続く……!)