旅のタイムカプセル

#24 迷子生み妖怪と国道45号線地獄 〜俺はまだ立っている〜(八戸〜宮古)

1985年8月19日 迷子生み妖怪

6時半、眩しい光で目が覚めた。
テントと言ってもキャンプ用のテントではなく運動会などで使うテントなので、低い位置からの陽光が僕の顔を容赦なく照らす。
昨日ほとんど走っていないにも関わらず、目覚めが悪いせいか疲れが残っている。
しかしタイヤも替えたことだし、本州に帰ってきて新たな気分で走り出せそう。
心機一転の気分でペダルを踏み出した。

八戸周辺は国道が複雑に入り組んでいた。
重複道路といって、いくつかの国道が同じ箇所を通っているのだ。
その際表示される国道○○号と言うのが非常に分かりにくい。
一応重複する時は若い番号で表記される。
例えば国道4号線と国道45号線が重複すると「国道4号線」と表記される。
そうなると国道45号線を走っているつもりの僕は、あれっ?45号線が消えた?となるのだ。
迷わないように注意しなければならない。

昨夜八戸港から一旦久慈を目指し、また本八戸駅に戻る際も実は滅茶苦茶迷った。
その経験があったので僕は軽自動車のいかにも地元民といったおじさんに道を確認した。
「仙台に向かうにはこちらで合ってますか?」
するとおじさんは惚けた顔でそうだと首を縦に振り、
その先の道のことも簡単に教えてくれた。
僕はおじさんの表情をどこかで見たような気がした。
しかし、気にせず教えられた道を目指した。

そうして30分ほど走った。僕の予想では30分も走れば海が見えてくる。
そう思っていたが、全くその雰囲気は感じられない。
あれっ、と疑い始めると、太陽の位置がおかしい事も気になった。
国道45号線を南下すれば太陽は左手に見えるはず。
なのに真後ろに太陽がある。
原始的な違和感が走る。
どう考えても内陸部を目指して走っている。そう思わずにはいられなかった。
やがて看板が見えてきた。
「十和田市 24キロ」
僕は全く別の方向へ来てしまっていた。
仙台と聞いてしまった為、国道4号線を教えられたのかもしれない。
しかし地図を見ると国道4号線に向かうにしても全く違う道に逸れている。
ほぼ北に向かって、これから西に向かうといったコースを走ってしまっていた。

あっ!軽自動車のおじさんの表情!
どこかで見たと思ったら京都大津間の「迷子生み妖怪!」
ちくしょ〜!
「まさかの全国巡業!? 迷える旅人を地獄へ誘う呪いの妖怪!!?」

僕は愕然としてもと来た道を戻った。
戻りながら八戸フェリーターミナルと書かれた看板が目に入る。
何故気づかなかったんだろうと自分が嫌になった。
午前8時、また本八戸駅に戻ってきた。
夢であって欲しい。そう思ったが仕方がない。
「20キロ以上の無駄走り。朝から何やってんだ、俺……。」
勿体ないと思う心を首を振って必死に消した。
昨夜もらったおにぎりにかぶりつき、リンゴジュースを飲んだ。
二人のエンゼルアニキとビアガーデンのお姉さんの顔を目に浮ぶ。
ありがとう、と呟くと迷子生み妖怪の嫌な思いが消えていくようだった。

「これ以上、妖怪の餌食になってたまるか!もう絶対に道は間違えない!!」

再度、久慈に向かって出発。
一度間違ったのでもう大丈夫。順調に国道45号線に出た。
道路は昨日まで走っていた北海道と比べるととても狭く感じた。
ただ、車の往来は北海道と同じで少なかった。
そのため走りやすさを感じていた。びびっていた国道45号線。
意外にそうでもないかも。
「よし! 気を取り直して岩手突入だ!!」
午前9時、岩手県入りした。

国道45号線はまさに荒業

岩手県種市市を過ぎ、しばらくすると陸中八木、陸中中野、陸中夏井と「陸中」の地名が乱れ飛んだ。そうかいよいよここから三陸突入なんだ。
程なく久慈市に入った。
国道45号線の荒業はここからが本番だった。
アップダウンの連続の洗礼。
海抜165メートルと153メートルのアップダウンを繰り返すが、150メートルを超えると、アップダウンというよりも2つの峠といった方がいいだろう。自転車にとってはアップダウンの域を完全に超えていると思った。しかしこれはプレリュードなのだ。
先ほど、「国道45号線攻略は意外に簡単」と思ったが全くの誤解だと感じ撤回した。

午前10時半、国鉄久慈駅到着。
駅舎で涼み、息が整うとすぐに走り出した。
走り出して3キロほどで野田峠に差し掛かった。2つ先の駅「陸中野田駅」までの峠だ。
国鉄の2、3駅毎に峠がある。そんな感じだ。
野田峠を越え、陸中野田へ降りていく中、目の前に太平洋が広がった。素晴らしい景色だ。海も空もそして木々も素晴らしい色合い。
「陸中海岸国立公園 十府ヶ浦海岸」
僕は忘れないよう自転車を停めてメモに書き留めた。
「こんなに綺麗な海が見えるんだね….。」
僕は昨日ズタボロのタイヤを替えてから、自転車に異様な愛着を感じ始めていた。
自転車のハンドルを握りながら一緒に眺めているような気でいた。
八戸から気仙沼までを国道45号線の中でも「三陸浜街道」と呼び、屈指の景勝街道とされている。
さて、国道45号線は青森から仙台までの実延長794.4キロ(全国2位)を結ぶ、国道随一の難所道路。因みに一位は国道4号線の838.6キロ。
同じ青森をスタートして、国道4号線は838.6キロで東京都中央区まで結んでいる。
対して国道45号線は宮城県仙台市までを結んで794.4キロ。
僅か44.2キロの違いで仙台と東京の距離の違いが出る訳だ。
いかに国道45号線が入り組んで遠回りしている過酷な道路である事が窺える。

恋しい麦わら

素晴らしい海景色も10キロほどで終わり、国道は急激に山間部へと滑り込んでいった。
両サイドが山林になると、短い坂、長い坂と小刻みに揺さぶるようなアップダウンが延々と続く。まるでこれでもかこれでもかと執拗に痛ぶられている気持ちになる。
必死に耐えて登って下ってを繰り返す。
すると急に本格的な峠道になった。
何とアップダウンの連続からいきなり400メートル級の峠越えがやってきたのだ。
海抜400メートルというと、海抜100メートルから500メートルに上る美幌峠と同じくらいのキツさだ。
僕は峠を上り切る前に精神的に参ってしまい自転車を停めて座り込んだ。
「暑い、アツい、熱い! 暑すぎて、心臓がバクバクしてる……これヤバくないか?」
尋常ではない暑さだ。
昨日までの北海道とは全く違う。
風で飛んで行った麦わら帽子が恋しかった。

……ん?あれ、水筒は!? ない!!!
ちょ、待って、どこで落とした!? マジでやばい!!

しばらく木陰に入り寝転んで目を閉じた。
もう起きれないかもと思った。
ビアガーデンでもらったりんご100%のジュースがあったことを思い出す。
飲むと、次第に息が整った。
あまり休み過ぎると本格的に嫌になってしまいそうだ。
僕はカウント8くらいでギリギリ立ち上がったボクサーのように立ち上がった。

380メートルの峠を越え、下り坂で風を切って走る余韻も束の間、200メートル級の峠が3つ続いた。
少し休憩したことで、この200メートルの峠も2つまでは一気に越えることができた。
3つ目の峠を上っているときにそれは突然起こった。
脚が突然突っ張ったように動かなくなり、そのまま私は自転車ごと倒れてしまった。
脚は攣っているわけではなく、ただ、ピンと硬直したように頑と動かない。
喉はカラカラ。さっきのリンゴジュースが最後で飲み物はない。
誰か座り込んでいる私に気付いて、
「どうしたんですか?」
と声でも掛けてくれないかと思った。
もし、誰かそうしてくれたら、
「すいません、何か飲み物ください、、、」
と涙を浮かべながら言うことだって恥も外聞もなく出来ると思った。
大阪を出てから24日間。何だかもっと昔のような気がする。
もし、今回この旅に出なかったら今頃どうしていただろう?
恐らく土日は枚方パークで戦隊ヒーローショーの戦闘員のバイトをして、平日はアクションの練習とときには友人とプールに行っていただろう。
旅心を満たすため、適当に3泊4日の手軽なキャンプを楽しんでたかも知れない。

最初は小声で
「おーい……?」
……誰も来ない。やっぱダメか……。
「おーい!!!!!」(声を振り絞る)

僕は全開ではない声で誰か呼んでみた。気分的には助けを呼ぶ感じ。
多少恥ずかしさはありながら、半分は真剣でもあった。
何でこんなにしんどいんだ……。」
「俺、ここでリタイアしたらどうなるんだ?」

自分に問うてみた。
すると今度は小平ユースのヘルパー、天塩の鈴蘭食堂のおじいさん、
らんていの主人、食堂ヒゲで会ったライダー天使、
そして昨日のエンゼルアニキ1号2号とお姉さんの顔がチラついてきた。
誰か助けてではなく、既にたくさんの人が助けてくれて、ここまで来れたと思えてきた。

頭の中で何かが流れた……エルトン・ジョンの声だ。
「Someone Saved My Life Tonight」
「Someone Saved My Life Tonight」
「Someone Saved My Life Tonight……そうか、俺はたくさんの人に助けられてる。」

口ずさむ僕に別の曲が流れてきた。
「I’m Still Standing!……俺はまだ立ってる!!」

「俺はまだ立っている。」
「俺はまだ立っている。」

僕はこの時自分を奮い立たせる為、「アイムスティルスタンディング」とメモに書き留めた。1時間近く、休んだ。次第に脚も動くようになってきた。
僕はゆっくり走り出した。
それからヨタヨタとではあったが無理をせず走った。
約30キロ、トンネル、アップダウンを歯を食いしばってやり過ごし、午後7時国鉄宮古駅にようやく到着した。
すっかり日は暮れていた。

野宿の宮古駅

僕は宮古駅に着くと駅前の弁当屋に入って3つの弁当を購入した。
弁当のフタを開けるなり、むさぼるように口へ運んだ。
気づけば、次の弁当、そしてまた次の弁当……。
無意識のうちに、全て平らげていた。
昼ご飯はリンゴジュースだけだったので、腹が減るを通り越えていた。

弁当を完食すると駅のベンチに腰掛けた。僕は知らないうちに寝入っていた。
午後9時、身体の痛みで目が覚めた。
これはいけないと、寝袋で本格的に寝ようと駅舎を出た。
マットを敷いて、寝袋を用意する。
すると、一人のライダーが駅へやってきた。
僕のさぁこれから寝袋で寝ると言う姿にライダーが話しかけてきた。
まぶたが重い……。けど、なんとか『こんばんは』とだけ絞り出した
その後、またライダーとサイクリストが立て続けに駅にやってきた。
合計4人、野宿が少し賑やかになった。

サイクリストに何処から来たか尋ねると仙台からだと言う。
まさしく僕がこれから進むルートを走ってきた訳だ。
地図を広げ、峠やアップダウンの様子を聞いた。
サイクリストは仙台から二日かけてこの宮古にやってきたと言う。
僕の今後の予定と同じだった。
僕もあと二日で、しかも銀行でお金がおろせる午後6時までの仙台到着が必須だった。
でなければあと1000円の残金で3日間を過ごすことは不可能に思えた。

しかし彼は2日前の朝仙台を発って、午後9時過ぎに宮古にこうして到着。
単純計算で、明日君が宮古を出発するとしたら仙台に着くのは2日後の午後9時だよと言う。確かにそうだ。その計算は大体の目安になる。
「その上、」と彼は続けた。
「僕はこの自転車(24段式変則付きレースタイプ)、君はその自転車(ミニサイクル)。
実際はもっと掛かると思うよ。」
本当だ、これまでロードレースタイプの自転車と一緒に走った事が何度かあったが、ついて行くだけでも大変だった。
僕はヤバいと思った。間に合わない。
間に合わなければ行き倒れだ。
僕は気楽に考えていたが、所持金2000円と距離を考えると崖っぷちだと神妙になった。
とにかく出来る事といえば寝ること。
今日、あまりのキツさに2回の倒れ込んだことを言うとライダーは
「バイクもキツイけど、そこまでのことはないからね〜」と笑った。
「バイクの何がキツイんですか?」
僕はライダーはスイスイ走っているように見えていた。
全くキツイことなど微塵もないように思っていたから尋ねた。

「うん、意外にね、腕とかね、脚とかね、しんどいのよ〜」
もう一人のライダーが「うんうん」と苦笑いでうなづく。
「何で脚が? で、腕って何で?」
「ずっと同じ姿勢で握りっぱなしだから、握力もジワジワ奪われていくんだよ。長時間走ると、もうハンドルを握るのすらしんどくなる。」
「へーっ!」と僕は感心した。
「腕は分かります!僕も時々しんどくなってハンドルの持ち方変えますもん!」
サイクリストが口を挟んだ。
「そう!だから、僕の自転車はハンドルが持ち替えられるようになってるよ!」と指差した。ロードレースタイプのハンドルで時々見る変な形のヤツだ。クイっと曲がってるだけでなく、中国武道で見るトンファーというような突起が出ているのだ。
変わってるなと思っていたが、ハンドルの持ち方を変えることが出来るのだ。
なるほど!そう言うことかと感心した。
ライダーは話を戻した。
「脚はね、伸ばしたくなるの。」
「へーっ!」と僕は再びは驚いた。
腕は共感できたが、脚伸ばしは分からなかった。
「ずっとね、脚を曲げていると血の巡りが悪くなるのか、痺れてくるの。だけどわざわざバイクを停めて曲げ伸ばしなんてやってられないから、その時は立って運転するの。」

「あっ!」

と僕は声を上げた。
考えてみれば、時々立って運転してるライダーを見たことがある……。もしかして……!
そういうことか!!!

そう思ってライダーに聞くと
「そう!」
爆笑した。みんなもつられて笑った。

駅舎の前で固まって寝袋に包みながら、4人の夜が更けて行った。

反省会 16歳の僕と56歳の俺

16歳の僕「…………。」


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  • バイクや自転車、車で「めちゃくちゃしんどかったルート」教えてください!

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