立ち止まった理由
私はこれまで、千里ニュータウンの歴史を振り返る動画を配信してきました。
最初は、令和6年8月に発表された千里中央再開発計画を記録するために動画を始めました。2032年までの8年間、**時代の最先端を駆け抜けた千里ニュータウンの中心地「千里中央」**がどう変わるのか、それを残しておきたかったのです。
同時に、新千里東西南北の町々を散策し、公園や団地群を改めて歩いてみると、新たな発見がありました。
そして、気づきました。
「千里ニュータウンの歴史を振り返ることで、この街の本当の価値が見えてくるのではないか?」
私はネットを駆使し、書籍や映画を調べ、千里ニュータウン資料室に通い、当時の新聞を読み漁るようになりました。
気づけば、その内容をブログにし、動画として発信するようになっていたのです。
昭和37年10月、吹田市佐竹台から千里ニュータウンの入居がスタート。
そこから新聞をもとに街の変遷を追い、大阪万博へ向けた発展の様子を伝えてきました。
しかし、昭和43年まで進めたところで、一度立ち止まりたくなりました。
なぜなら、発展の裏には不正や混乱があったからです
日本初のニュータウン。夢にあふれた未来都市。
競争率40倍にもなった憧れの千里ニュータウン。
しかし、現実は理想通りには進みませんでした。
・下水処理、ゴミ問題が次々に発生
・「歩車分離」と言いながら、実際には安全性に疑問の声が上がる
・子どもの増加に対応しきれず、幼稚園・小学校の設立が遅れ、教室不足が深刻化
・予定になかった宅地開発、公園予定地の分譲地化
その裏には、行政の不正や汚職がありました。
昭和43年には、役人・建築業者の収賄容疑の逮捕から、次々と闇が明るみに出たのです。
役人ファースト、住民無視の行政。
「千里ニュータウンの成功」と言われる一方で、その裏側には全国の都市開発にも通じる問題が渦巻いていました。
千里ニュータウンと私の関わり
私は豊中市で生まれました。
その頃の千里ニュータウンは、まだまだ自然が豊かで、溜池がたくさんありました。
釣り天国だった溜池
今ではすべて釣り禁止になってしまいましたが、当時は自由に釣りができ、毎日のように釣り竿を持って出かけていました。
竹藪とクワガタムシ
未開発の山や竹藪が広がり、夏になると家のカーテンにクワガタが止まっていることもありました。
自然の中で遊べて、セルシーにはゲームセンターやボーリング場もあった。
千里ニュータウンは「新しい街」のスタイルとしてワクワクする場所でした。
なぜ千里ニュータウンに戻ったのか?
その後、私は競馬と釣りの仕事関係で、滋賀県草津市に17年間暮らしました。
滋賀の自然は本当に素晴らしく、琵琶湖の釣りや広大な山々に囲まれた生活は、子どもたちにとっても最高の環境でした。
さらに、滋賀県では高校生までゴルフが無料でプレイできる制度があり、週末は家族でゴルフ場に行くのが習慣になっていました。
私自身も釣りや馬に夢中になった幼少期があったからこそ、子どもたちにも自然と触れ合う機会をたくさん持たせたかったのです。
ただ、子どもが中学生になり、進学や就職を考えたときに、千里ニュータウンの方が環境として優れていると感じました。
そこで家族5人で千里中央へ戻ることを決めました。
その結果、子ども3人は春日丘高校に進学し、大学にもストレートで合格。
千里ニュータウンは、教育面でも素晴らしい街なんです。
それでも千里ニュータウンを記録し続ける理由
たしかに行政の問題もありました。
でも、それ以上にこの街にはたくさんの人の思い出が詰まっています。
✔ 豊中で過ごした幼少期の記憶
✔ 吹田での学生時代の思い出
✔ 40歳で戻ってきて再確認した素晴らしさ
千里ニュータウンの変遷を記録することは、ただの歴史を振り返ることではなく、人々がどう暮らし、どう変化してきたのかを伝えることでもあります。
だからこそ、私はこれからも千里ニュータウンの歴史を掘り下げていきます。
良い面も、悪い面も、すべてを含めて。
最後に
昭和44年の千里ニュータウンの歴史を配信する前に、一度自分の気持ちを整理してみました。これからも、この街の記憶を残すために、動画やブログを通じて伝えていきたいと思います。
千里ニュータウンに住んでいた人、今も住んでいる人、関心を持ってくれる人——
一緒にこの街の歴史を振り返り、未来へつなげていきましょう。